ユーリ達は午前中の仕事を終わらせ、人でごった返す食堂に立ち寄った。
ちょうど昼の混雑時に当たってしまったようで、たくさんあるはずの席は殆ど埋まってしまっている。
全員で集まって食べるのは無理そうだと判断し、それぞれ空いている席を探しに散らばった。
精一杯背伸びをして、食堂の奥まで見渡してみたものの、あいにく座れそうな場所は見当たらない。
仕方がないとため息をつき、ユーリは厨房の入り口に近づいて声を上げる。


「すみません、外で食べるので食材を分けてもらえますか?」
「あいよ、ちょっとまってな」


 厨房の料理人に、パンと葉物野菜、ベーコンの切れ端を分けてもらう。
皮の水筒にミルクを注いでもらって、厨房を出て行こうとすると後ろから呼び止められた。
大鍋の前で汗をかいていた、恰幅の良い壮年の料理人が小袋を差し出してくる。
中を覗くと、小ぶりなレカシュの実が3つ入っていた。


「今日はこいつが安く手に入ったらしくてな、南にもちと分けてもらえたのさ」
「え、……でも、昼のメニューには入ってないですよね?」


 分けてもらえたと言っても、下働き用の食堂では1日何千食もの膳がだされるのだ。
その全てにデザートをそえられるほど、レカシュの実が溢れているとは到底考えられない。
困惑気味に料理人に目をやると、彼は悪戯をする子供のようににやりと笑った。


「食堂おん出されちまうお嬢ちゃんに、特別にやるよ」
「嬉しいです、ありがとう」


 パンの間に野菜やベーコンを挟んで、ナプキンに包むと、ユーリは今度こそ食堂を後にした。




*************




 東門付近まで来ると、南地区の喧騒とは一転し辺りは静まり返っている。
空に向かって枝を伸ばす大樹まで駆けて来た彼女は、昼餉と水筒を懐に入れ、幹に手を伸ばす。
するすると登った先、もはや定位置となった枝までたどり着くと、詰めていた息を吐いた。
少し火照った顔に心地よい風は、もう春の気配を含んでいる。

 風に髪を遊ばせながら、眼下に広がる光景にユーリは目を細めた。
賑わう街並みは祭りに向けて準備が進められ、通りに面した建物には造花で作られた花輪が飾られている。
あれが祭りの前夜から後夜祭までの3日間、華やかな本物の花に変わるのだ。
そして、メイン通りにはたくさんの商店が軒をつらね、商人は今年の春に取れた作物を手に商売に精を出す。
今は屋台の骨組みがまばらにあるだけだが、祭り当日には数倍に増えていることだろう。

 活気付く街並みの先には、少しずつ緑萌ゆるトゥリジール山がそびえている。
あの山の向こうに、自分の住む森があるのかと思うと感慨も一入(ひとしお)だ。
森から出てきて、まだ一ヶ月にも満たないと言うのに、とても懐かしい気持ちになるのは何故だろう。
偶然見つけた場所ではあるが、自分の住みなれた森に思いを馳せる事のできるこの大樹が、彼女にとってこの王城で一番のお気に入りとなった。

 大きな枝に腰を下ろし、ユーリは持ってきた昼餉を膝の上で広げた。
走ってきたせいか、少し形が崩れてしまっていたが、味に問題はないだろう。
はみ出てしまった野菜を押し戻してから、彼女はパンの端に齧り付いた。
ベーコンの香ばしい味と、瑞々しい野菜の甘味が口の中に広がり、ユーリは思わず顔を綻ばせた。

 口の端についたソースを拭こうとポケットに手を伸ばし、ふと思い出す。
そういえば、ハンカチは第一王子に貸したまま、返してもらうのを忘れていた。
仕方なく、ナプキンの端で口を拭いて、パンを流し込むためにミルクを口にする。

 あの一件以来、王子殿下とは会っていない。
そもそも、ここは南地区であって、王族が気軽にいて良い場所ではないのだ。
恐れていたようなお咎めも、事件もなく、ユーリは平穏に日々を過ごすことができている。
だから、正直油断していたのも確かだ。


「ユーリ、また会えたな!」
「……っぐ、げほっ……!」


 意外に近い場所で聞こえた、少年期特有のやや高めの声に、彼女は思い切り食べ物を喉に詰まらせた。
咽たせいで涙で滲んだ視界を、何とか声のした方へと向ける。
彼は心配そうな顔で、自分を覗き込んでいた。
ちょうど何もなく安堵していた所だったのに、と少し恨みがましい視線になった気もする。


「……王子殿下」


 どことなく疲れを滲ませたユーリの声とは反対に、ラズフィスは実に麗しい笑みを浮かべた。




*************




「殿下、もしや後宮を抜け出して来られたのですか?」
「お前に会いたかったんだ。ユーリはこの樹から離れられないだろう? だから余がこちらへ来たのだ」
「この樹から……離れられないとは、どのような意味でございましょう」


 確かに自分は南地区から外へ出ることは適わないが、大樹から離れることは可能だ。
むしろ、この場に居ないことのほうが格段に多いだろう。
眉根を寄せたユーリに、ラズフィスは不思議そうに小首を傾げた。


「だって、お前はこの樹の精霊じゃないのか?」
(どこの世界に、食い物を詰まらせて咽る精霊がいますか!)


 思わず声に出して突っ込んでしまいそうになり、ユーリは拳を握り締めて耐えた。
溜め息を付きそうになる自分を叱咤し、笑顔を保つ努力をする。
そう、いくら王子殿下といえど、彼はまだ7つの子供なのだ。
空想を信じ、突拍子もないことを言っても許される年だ。


「御期待に沿えず申し訳ございませんが、(わたくし)は南で働いております唯の下女にございます」
「南? だが、南の者は皆不思議な言葉を話すではないか。お前は余の傍でよく聞く言葉を話しておるぞ」


 彼の言う不思議な言葉とは、恐らく訛りや下町言葉のことだろう。
後宮の深くで教育を受ける王族にとっては、未知の言葉と言えるかもしれない。


「あれは言葉の訛りにございます、なかには(わたくし)のように話す者もおりますよ。それに、この通り私は食物を食べねば生きてはいけませぬゆえ、大樹の精にはなれぬかと」
「そうか。お前はなんだか余の知る者達とは違う気がしたから、てっきり人ではないのかと思ったのだ。すまなかったな」


 申し訳なさそうに眉を下げるラズフィスに、ユーリはほんの少し驚いた。
前回の遭遇時に思い切り泣いているところを見たせいか、彼は泣くか笑うかの印象しかなかった。
だが、本来はなかなか表情豊かな少年であるようだ。
好奇心が旺盛である年頃の子供らしく、ラズフィスの興味はユーリの手にする袋の中身へと移ったようだった。


「ユーリ、それはなんだ? 初めて見るぞ」


 彼が指差したのは、レカシュの実だった。
それほど珍しい物でもなく、春先にはよく市場に出回る一般的な果物のはずだ。
料理人は王城で仕入れた分を分けてもらったと言っていたのだから、城でも普通に食しているのだろう。
まあ、王族の口に入る物と下働きが食べる物とでは、品質がまったく異なるには違いないが。
しかし、見た目がそう変わるわけでもないのだから、ラズフィスの反応には首を傾げざるを得ない。


「レカシュでございますが。ご存知ありませんか?」
「知っているが……、余の知るレカシュは白く柔らかい実に甘い香りがするものだ。このように茶色く硬いものは見たことがない」


 なるほど、とユーリは内心で頷いた。
硬い殻を持つこの果物は、割って食べるのに少し手間とコツがいる。
王族の前に上がるレカシュは、きれいに殻を剥かれ、すぐに食べられる状態で出されているのだろう。
だから、あの白くまろく柔らかな果物と、目の前の硬い殻に覆われた実が結びつかないのだ。

 ユーリは皮袋の中からレカシュの実を一つ取り出すと、節に沿って指をのせて力を入れる。
パキリと音がして、表にひびが入ったのを確認し、裏返す。
同じように節に沿って力を加えると、硬い殻が割れ果汁とともに甘い匂いが漂う。
殻を全部剥いてしまえば、間違いなく彼の知るレカシュそのものだった。


「本当にレカシュだ」


 目を丸くして驚くラズフィスに、ユーリは笑みをこぼす。
王子といえども、こうして見ると普通の子供となんら変わりない。
珍しい物を見るような視線でレカシュを見ていた彼は、急に真剣な顔になる。


「余にもやらせてくれ」
「では、こちらを」


 大きめな実の方をラズフィスに渡すと、彼はユーリがやって見せたように殻に力を入れた。
しかし、力のかけ具合や場所が悪かったのか、殻の表面が歪むだけでひび一つ入らない。
暫く悪戦苦闘する彼を見守っていたユーリは、ラズフィスの手の中にある実の一点を指した。


「この節の部分に親指をあて、力を入れて殻が歪むようにされると良いかと存じます」
「こうか?」


 彼が幼い手で苦心しながら力を込めると、パキリと乾いた音がした。
パッと顔を輝かせ、彼は実を裏返して同じように節の部分に指を宛がう。
今度はそれほど苦もなく殻にひびが入り、先ほどのレカシュより幾分か大きな果肉が転がり出てきた。
それを彼が戸惑いなく口にしたものだから、ユーリは少し慌てる。
これが毒でも入っていたらどうするのだろうかと考えたが、それだけ彼が信頼してくれているのだと思うことにした。


「美味いな! いつも食べる物より甘い気がする」
「それはようございました」


 白い頬を紅潮させて喜んでいたラズフィスだったが、不意に視線を揺らして顔を曇らせる。
じっとレカシュの実を見つめて、何かを考え込んでいるようだった。
それは、数日前にこの場所でみつけた、小さくなって泣いている彼に重なる。


「殿下?」
「このように、学べば、努力すれば、すぐにできるようになれば良いのに」


 それは、思わず零れ落ちたような、本当に小さな声だった。
時に突拍子もないことを考え、好奇心もあり、様々な感情を表出させる彼は、普通の少年と変わりなく思えた。
しかし、ふとした瞬間に思い知らされる。
彼が、王の子であるのだと。

 王子である彼は、自分には想像がつかないほどの重圧があるのだろう。
なんと声をかければ良いだろうかと悩んでいるうちに、彼は自分で気持ちを切り替えたようだった。
顔を上げた時には、すでに元の少年の顔に戻っていた。


「余はそろそろ戻ることにする。お前が南の者なら、昼の休みであったのだろう。邪魔をしたな」
「いえ、そのようなことは……。」


 結局、かける言葉も見つからないまま、ユーリは(かぶり)を振った。
先に幹を降り始めていたラズフィスは、何かを思い出したのか小さく声を上げて動きを止める。
急に振り返られたのに驚き、彼女は息を止めた。
彼のキラキラと光る瞳に、何故か嫌な予感がしてユーリの口元が引き攣る。


「ユーリ。また、会えるだろうか」


 期待を込めた眼差しで見つめられ、ユーリは言葉に詰まる。
これで駄目だと言ったら、まるで自分が悪者のようではないか。
冷や汗を流しながら、暫し視線を彷徨わせていた彼女は、やがて諦めたように溜め息をついた。


「縁がありましたら、おのずと会えましょう」


 自分の首を絞めることを自覚しながら、苦笑交じりに告げた言葉。
返されたのは、あの麗しい笑顔だった。





*************




 小さくなっていく背中を見送り、ユーリはそっと目を伏せ太陽の少年を思う。
願わくは、――彼の光が翳ることのないように。
彼女が囁いた言葉を、風が攫っていった。




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