彼女が臨時の働き手として城に就職してから、何事もなく幾日かの時が流れた。
洗濯場の仕事にも慣れ、同室の仕事仲間ともそれなりに打ち解けていた。
「じゃあ、今日はこっちの籠をもって行こうかな」
「なら、私はこちらを担当しますね」
「あ、これ兵舎に持ってくやつじゃない! 今日はあたしが当たりね」
南門近くの中庭で日干しをしていた洗濯物を取り込み、植物の蔓で編まれた籠に放り込む。
あとは取り込んだ衣類を担当場所に届け、変わりに汚れ物を洗濯場に運んで、自分達の仕事は終わりだ。
届けられた衣類を仕分けし畳んだり、汚れた衣類を熱湯につける作業はまた別の人間の分担になる。
昼餉の約束をした後、両手でなんとか抱えることのできる籠を持ち上げ、中庭からそれぞれ担当する棟に向かって歩きだした。
彼女が本日担当しているのは、南の地区の東門近くにある後宮女官の詰め所である。
とはいっても、部屋付きではない下級の女官達であるので、何人もの女官が共同で寝起きをしているような場所だ。
この時間は後宮の掃除や、昼餉の準備に忙しく立ち回っているらしく、もぬけの殻であるのが常だった。
段々と暖かさを増してくる日の光に、彼女はそっと目を細める。
今頃、自宅付近では春を告げる草が芽吹き、様々な種類の薬草が顔をのぞかせているだろう。
ささやかな畑は手入れをする者がいないため、残念なことになってしまっているかもしれないが、仕方のないことである。
王都を離れるときは、夏野菜の苗と、都でしか手に入らない珍しい薬草の種でも買って帰ろう。
それらを畑に植える楽しみを思うと、自然と彼女の口元に笑みが広がった。
取り留めなく考え事をしていたせいか、彼女が東側の喧騒に気付いたのは東門まであと少しという距離になってからだった。
後宮特有の空気というか、どんなに忙しい時間帯であっても、東側は楚々とした雰囲気であることが多かったのだが、今日はどことなく緊張を孕んでいる様だった。
遠くの方から、誰かを呼び、探し回るような音が漏れ聞こえてきた。
南の人間である自分が巻き込まれることはないだろうが、面倒事には近づかないのが一番である。
さっさと仕事を終えて退散しようと、止めていた歩みを再開した彼女は、微かな嗚咽を聞いた気がした。
耳を澄ますと、それはどうやら頭上から聞こえてくるらしく、そっと上を仰ぎ見る。
何だかとてつもなく嫌な予感がしないでもないが、もし彼女の予感が当たっているなら放っておく事もできないだろう。
深いため息をつき、洗濯籠を木の根元に置いて、彼女はその幹に両手を伸ばした。
樹の中ごろにある太くしっかりとした枝に手を伸ばし、両腕の力で体を持ち上げた先、彼女の目に飛び込んできたのは眩いばかりの黄金だった。
日の光を受け、風が通り過ぎる度にキラキラと反射するその色に、彼女は思わず天を仰いだ。
今世に、この色を宿すのは二人しかいない。
一人はこの国の頂点に座す王であり、残る人物はただ一人。
間違いであって欲しいと願いながら、殆ど確信を持って彼女は己のひざに顔を埋めた子供に囁く。
「もしや……王子殿下でございますか?」
びくりと肩を震わせ、彼は勢いよく顔を上げる。
その拍子に、新緑を思わせる翠の瞳からぼろりと涙が零れ落ちた。
表情を変えずに、彼女は内心で果てしなく深いため息をついた。
今現在、後宮の人々が血相を変えて探し回り、名を呼ばわっていた人物が頭に浮かんだ。
樹上で一人嗚咽を漏らしていた彼こそが、フェヴィリウスの第一王子、ラズフィス・ユディア・フェヴィリウスその人であった。
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こぼれんばかりに瞳を見開いた後、第一王子はおもむろに服の袖で目元を擦り始めた。
彼女は慌てて懐を探り、持っていたハンカチを差し出す。
赤くなってはいけないと思ったのだが、よくよく考えれば庶民の持ち物である布より、王族の衣服の方が余程柔らかな物を使用しているはずだ。
まぁ、その豪華な生地を汚さないためと考えれば、いくらか理に適うはずだ。
「殿下、よろしければこちらをお使いください」
彼は揺れる瞳でじっとこちらを見つめた後、彼女からハンカチを受け取り顔に押し付けた。
漏れる嗚咽を飲み込みながら、どうにか感情を抑えようと必死に抗っているようだった。
小さく震える肩を見下ろしながら、彼女はじっと彼の激情が治まるのを待った。
御年、7歳になるはずの彼の王子殿下は、ちゃんと食事を摂っているのかと心配になるくらいには線の細い少年だった。
鼻筋がすっきりとしていて、整った顔立ちの少年は、見ようによっては女の子にさえ見えそうだ。
彼が落ち着くのを待ちながら、彼女はこの後にどうするべきかと頭を悩ませる。
なぜ王子殿下が泣いているのか、どうやって東側を抜け出してきたのか、そもそも子供が抜け出せてしまう後宮の警備はどうなっているのかなど疑問は尽きない。
しかし、正直に言ってもろもろの疑問はひとまずどうでも良い。
彼女にとって目下の悩みは、王子殿下をどうやって穏便に後宮へ届けるかということである。
一番良いのは、来た道を殿下自らお帰りいただくことだが、この泣きぶりを見るとしばらくは無理かもしれない。
王族をこのまま放置しておくわけにもいかず、彼女は己の昼餉を諦め、約束を反故にすることを心の中で同僚達に謝った。
嗚咽と供に僅かに揺れる頭を見るともなしに見ていたが、一つ下の枝に足を置き彼に背を向けて王都を見下ろした。
そういえば王族をこんな間近で、しかも泣いている姿を直視するのは不敬にあたる可能性もある。
こんなことで縛り首はご遠慮願いたいので、できることなら王都永久追放とかにしてくれないだろうか。
遠い目でそんなことを考えていた彼女の耳は、背後から届く小さく擦れた声を拾い上げた。
不敬罪の文字が頭の中をちらついたが、泣いている子供を放っておくのは気が引ける。
彼女はほんの少し項垂れてから、気を取り直して彼に向き直り声をかけた。
「殿下、いかがなさいましたか?」
「……なぜ……お前は、泣くなと言わぬのだ」
消え入りそうな声で呟かれた言葉に、彼女は暫し沈黙した。
なぜと問われても返す答えが無かったというのもあるが、彼の言葉に僅かに衝撃を受けていたのだ。
彼女の知り合いに、今年の夏に9歳になる息子を持つ者がいる。
腕白ざかりの少年はよく遊び、よく笑うが、逆に気に入らないことがあると、癇癪を起こしてはよく泣いた。
そもそも、子供とは感情の起伏が激しく、よく泣くものである。
そう、――それが普通の子供であるならば、だ。
「皆、王の子であるならば感情的になってはならぬと言う。それに、余は王子だ。妹達のように泣くのは恥ずかしいことなのだろう」
己の膝を抱き、身を守るように小さくなっている子供。
大声を上げて泣くことすらできず、こんな風に隠れて感情を吐き出すことしかできない。
そんな姿に、こみ上げてきた気持ちは何であったのだろうか。
それは単なる同情であったのかもしれないし、あるいは彼にかつての自分を重ねたのかもしれない。
つらい、こわい、くるしい、本当は大声で叫びながら泣きたかった。
でも、助けを求める権利は、自分にはなかったから。
必死で押し殺して、いつしか諦めることを知った。
あんな風に血を吐くような苦しみを、目の前の幼い存在に背負って欲しくなかった。
たとえそれが、王の子であろうとも。
だから、思わず声をかけた。
平穏を望むのならば、けして関わってはならないと理解しながら。
「下賤の身である私 に、王族方のお心は分かりかねますが、男であるから泣いてはならぬと言うことはないかと存じます」
かつての記憶に顔を強張らせていた自覚があるため、できうる限りの気力でもって彼女は笑みをつくる。
表情が引き攣ってはいないかと危惧したが、見開かれた新緑に映る自分は存外穏やかな顔をしていた。
その事実に力を得て、彼女は幼い王族に向き直った。
「少なくとも、私 の知人には成人した男でありながらよく泣く者がおりますが、恥ずかしい奴と思ったことはございません。彼は大泣きした後、実にすっきりとしていましたし、その時どうすれば良かったか、次に何をすれば良いのかを考えられる者でしたから」
もう会わなくなって久しい彼の人を思い出す。
彼は優に2メートルを超すのではないかと思えるほどの大男でありながら、とても感情豊かな男であった。
悲しいことがあれば人目もはばからず泣き、感動しては泣き、悔しさに耐え切れず涙を流
し、他人に感情移入しては声を上げて泣いた。
だが次の日にはからりと笑い、前を向いて歩いていけるだけの強さを持っていた。
夏風のように爽やかで、当時鬱々としていた自分にとっては、実に眩しい男だった。
「私 は泣くことが悪いこととは思いません。泣いた後、良く考え、確実に歩んでいけるのならそれもまた、一つの成長であると考えるからです」
「……余はその者のようになれるだろうか」
「殿下ご自身が願い、努力されるのであれば」
果たして自分がそうあれたかと問われれば、首を傾げざるを得ない。
それでも、この太陽の光を宿す少年が、どうか暗闇に飲み込まれることがないように。
ただ、願う。
第一王子は膝の上で握り締めていた両手を解き、俯いてしばらく動かなかった。
小さく鼻を啜り、次に顔を上げた。
少し赤くなってはいたものの、その目に涙は見当たらなかった。
そのことに何故だかほっとして、彼女は自然と己の唇が弧を描くのを感じた。
「さあ、そろそろ東へお戻りください。きっと、皆が御身を案じております」
彼女は降りやすいようにと、足場にしていた枝を移動し王子殿下を促す。
一つ頷くと、彼はそれほど危なげなく幹を利用して降りてくる。
それを確認してから、彼女は枝を伝って先に降りて大樹を見上げた。
何かあればすぐに対処できるようにと見守っていたが、程なくして王子殿下は慎重に地に足をつける。
衣服についた木屑を払った王子は、はにかんだ様な笑みを浮かべた。
思わず微笑み返しそうになった彼女は、雇用の折に説明された作法を思い出し慌てて平伏する。
今更のことであるが、それに加えて王族を見下ろしたとあっては、無礼にもほどがあるだろう。
「なぜそのようなことをする。顔を上げよ」
「恐れ多うございます」
頭を上げない彼女に、王子殿下は不満げな雰囲気をかもし出しているようだった。
暫しの沈黙の後、彼は小さくため息をつく。
「ならば、名を。お前の名を教えてくれ。それくらいなら良いだろう」
「……ユーリ、と申します」
「ユーリか、良い名だな」
彼女は、幾分か和らいだ王子の声色に心の中で安堵する。
気づかれないようにそっと視線を上げた彼女は、その光景に息を呑んだ。
精霊の寵愛を受ける、黄金を頂く者は光そのものである、とは誰が言った言葉であったろうか。
今ならば、心の底から同意することができるだろう。
彼の顔に浮かぶのは、満面の笑みであった。
まるで、とても良いモノをもらったとでもいうように、頬を紅潮させている。
太陽の光を受け、彼は眩いばかりに輝いていた。
それが、後に28代フェヴィリウスの国王となる、ラズフィスと彼女の出会いであった。