茂みをかき分けて獣道を飛び出した陽菜子は、つんのめるようにして急停止した。
開けた視界の先には、山神の言っていた通り川があった。
ただ、その川は遠目に見て感じていたよりも大きく、更に先日に降った雨のせいか、流れもそこそこ速い。
無闇に踏み込めば、足を取られ、逆に猪に追いつかれてしまうだろう。
陽菜子は周囲を見渡し、渡りやすい場所はないかと探すが、生憎と都合よく見つかりはしなかった。


「ど、どうしょう、山神様。なんか、渡れそうな場所が見当たらないんですけど」
『馬鹿もん、ちんたら渡っておったら、追いつかれるにきまっておろう。飛び越えて行くに決まっておるじゃろうが』


当然のように言い放った山神に、一瞬目を見張ってから、陽菜子はぶんぶんと勢い良く首を振った。


「む、無理ですよ! 私、自慢じゃないですけど、運動神経中の下くらいなんです! こんな川、飛び越せませんよ!」


陽菜子の体育の成績は、小中高と悪くなかったものの、抜きん出て良かったというわけでもない。
特に、走り幅跳びだなんて、一年に一回、身体測定の時にやるか否かという程度である。
確か、去年の測定値は4メートルちょっとくらいで、特別良いという記録でもなかった。
そんな成績の陽菜子が、とても目の前の川を飛び越せるとは思わない。
下手をすれば、川の中に着地して、全身濡れ鼠である。


『弱気なことをぬかすな! わしが力を貸してやるのだ、この程度の川などわけなかろう』


ぽこぽこと煙を噴き出す勢いで怒り出した山神と、背後から迫る地響きに、陽菜子はとうとう覚悟を決めた。
口を真一文字に引き締め、二歩、三歩と後退さってから大きく息を吐き出す。
パッと顔を上げ、川を睨みつけるように見やってから、陽菜子は勢い良く駆け出した。


「でりゃぁぁああ!」


年頃の女の子らしからぬ雄たけびを上げながら、陽菜子は思い切り地面を蹴る。
その直後、不思議なことに、ふわりと体が軽くなったように感じた。


(へ?)


陽菜子が驚いている内に、いつの間にか体は川を飛び越して対岸に足をつけていた。
足元が水に濡れたが、それもほんの僅かである。
唖然とした表情のまま、陽菜子は背後を振り返った。
川はそれなりの幅があり、普通に考えればこんな風に軽々と飛び越せるような距離ではない。


『小娘、何をぼさっとしておる。走れ! 天狗の腰掛けはあの先じゃ!!』


思わず自分の体を見下ろしていた陽菜子だったが、山神の言葉で我に返ると、慌てて川の対岸に視線を向ける。
その時、ちょうど茂みから飛び出した猪が、川の中に飛び込んだ。
バシャバシャと水しぶきをあげながら、猪は猛然と対岸を目指して泳いでいる。
少し距離が開いたとは言え、もたもたしていてはすぐに追いつかれるだろう。
陽菜子はぶるりと身体を震わせてから、奇妙な形に枝を伸ばした木を目指して走り出した。




*******





川を越え、必死に走り通した陽菜子だったが、慣れない山道に、徐々に体力を奪われていく。
足はがくがくと震え、横っ腹が悲鳴をあげ、粗い息を繰り返すのがやっとだ。
時折耳元で山神が飛ばす指示に、頷いて返すのがやっとだった。


『小娘、見えてきたぞ。あれが天狗の腰掛けじゃ』


山神の言葉に、顔を上げて確認しようとした陽菜子だったが、盛り上がっていた木の根に足を取られ、前のめりに転んでしまった。
とっさに両腕を出したため、顔面を打ち付けるのは何とか避けたが、一度重力に負けてしまった体は、なかなか言うことをきかない。


『これ、はよう立ち上がらんか! このままでは追い付かれてしまうぞ!』


山神の叱咤に、陽菜子は震える腕に力を入れ、何とか上体を起こした。
その時、視界の端で黒いモノが動き、とっさに視線を向ける。

そこにいたのは、まだ頼りなく跳ねる一羽の子ウサギだった。
陽菜子の様子を伺うように見つめ、ひくひくと鼻を動かしている。
そうして、ぴくりと長い耳を動かしてから、小さく跳ねて山道を登っていく。

子ウサギの姿を追うようにして顔を上げた陽菜子は、その先にあった光景に思わず息をのんだ。
木の枝を埋め尽くすように止まった野鳥、草村から顔を覗かせる大小の動物達。
その全てが、じっと陽菜子を見つめていたのだ。

疲れも忘れ、ぽかんと口を開けていた陽菜子だったが、またも小さな黒い影が動いたのに気づきそちらに目を向ける。
いつの間にか坂道を登りきり、兄弟らしきウサギ達のもとにたどり着いた子ウサギがぴょんぴょんと飛び跳ねていたのだ。
まるで、ここまでおいでと言っているような様子に、陽菜子は笑みを浮かべる。
あんな可愛らしい応援をされては、頑張らない訳にはいかない。
陽菜子は少しよろけながらも立ち上がると、再び山道を登り始めた。

時折ふらつき、片手で木によりかかりながら、陽菜子は一歩一歩天狗の腰掛けに近付いていく。
そんな彼女の周囲では、ウサギやリス、サルやタヌキなど、様々な動物達が陽菜子を見守っていた。
自分達の山神が力を貸しているから、ということが大きいのだろうが、それでも元気づけられていることには変わりない。
彼らの気持ちに応えるためにも、まずは祥と合流し、我を忘れて暴れ続ける猪をどうにかしなければならない。


(もうちょっと……もうちょっとだ。頑張れ、私!)


少し立ち止まって息を整えながら、陽菜子は自分で自分を励ます。
大きく深呼吸し、再び一歩を踏みだそうとした時、背後でバキバキと大量の枝が折れるような音がした。
振り返る間も惜しく、陽菜子は凭れていた木から離れ、天狗の腰掛けに向かって駆け出した。
少しずつ、少しずつ、目的の場所が近付くにつれ、背後の物音も大きくなる。


「藤森!」


目を瞑り、必死に手足を動かしていた陽菜子の耳に、自分の名を呼ぶ声が飛び込んできた。


「あと少しだ、頑張れ!」


その声に勇気づけられ、陽菜子はラストスパートをかける。
ふわりと背が押される感覚の直後、自分より一回り大きな手に腕を掴まれた。


「え? ……って、わあ!」


ぐいと引っ張られた陽菜子は、勢いを殺せずに思い切り転がる。
その拍子に、陽菜子は額を木の幹にぶつけ、その場でもんどりをうった。

この時、陽菜子が目を瞑っていなければ、驚くべき光景を目にしていた事だろう。
祥は陽菜子の腕を取り、思い切り自分の背後へと引っ張った後、その場で素早く身を翻した。
そうして、此方へ猛然と近付いてくる土煙を一瞥し、視線を上に向ける。
奇妙な形で張り出した枝は、所謂天狗の腰掛けと呼ばれるものだ。

その枝を見つめながら、祥は傍らに置いてあった店長特製のハリセンを手にとった。
僅かに身を屈めた後、勢いよく地を蹴り、決して低くはない天狗の腰掛けに飛び乗る。
明らかに人間離れした動きであったが、それに突っ込む者はいない。
なにせ、唯一異常であると認識できる人間は、その時頭を抱えて地面を転がっていたからだ。

そうこうしている間に、猪は天狗の腰掛けのすぐ傍まで迫っていた。
祥は目を細め、じっとタイミングを見計らう。
両手でハリセンを構えると、猪が真下を通る直前に枝から飛び降りた。

直後、森の中に不釣り合いな、高く張りのある音が木霊した。
猪の脳天を強かに叩いてから、祥は後ろに飛び退き猪との距離をとる。
猪は鋭い牙を振り上げたまま、数秒間その場に固まっていた。
しかし、徐々にその体が傾ぎ、やがて土埃と重い音を立てて横倒しになった。

その拍子に、牙にはまっていた御統玉がぽとりと地面に落ちる。
すると、神気によって膨らんでいた猪の体がみるみるうちに縮んでいく。
その様子を黙って見つめていた祥は、詰めていた息を吐き出すと、踵を返して陽菜子へ近付いていった。




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