祥と分かれてから数分後、陽菜子は死に物狂いで森の中を駆けていた。
時折、伸びた枝が陽菜子の肌を傷つけるが、それに構っている余裕はない。
陽菜子が顔を引きつらせたまま、背の高い茂みを抜け出した直後、地響きのような音が聞こえてきた。
その轟きが徐々に大きくなり、低木を薙ぎ倒しながら、茶色の巨体が弾丸のように飛び出した。
目を血走らせ、涎を撒き散らして、猪は陽菜子を目掛けて突進してくる。


(ひぃぃいい!)


必死に動かすものの、朝から酷使し続けている両足は限界に近かった。
それに、猪は時速40kmもの速さで迫ってくるのである。
どれだけ頑張ろうとも、陽菜子と猪との距離は少しずつ近付いていく。


(もうダメだ、絶対追い付かれる! そうして、跳ね飛ばされた私は、哀れ病院送りなんだ!)


臨死状態は既に経験済みだが、あれは戻るべき体が無事であったからこそ問題なく戻ることができたのである。
あんな暴れ猪に跳ね飛ばされて、やわな女子高生が平気なわけがない。
運がよくて重症、下手をすれば命を失いかねないだろう。
唖然と自分の体を見下ろす絶望感は、できればもう暫らくは味わいたくない。

もし、本当にそんなことになったなら、陽菜子を笑顔で差し出した店長を絶対に呪ってやる。
そう陽菜子が固く決心をしている間にも、脅威はすぐ後ろにまで迫ってきていた。
あわや、その牙が陽菜子に届くかと思われた時、急に鳥の羽ばたく音が聞こえ、直後に猪の頭上に大量の枝や葉っぱが降り注いだ。


「へ?」


視界を奪われた猪は、道を逸れ、近くの木に正面から衝突した。
いったいどうした事かと、陽菜子は足を止めて背後を振り返った。
猪はふごふごと鼻を鳴らし、頭を振り回して積もった葉っぱを落としている。
陽菜子は唖然と立ち尽くしていたが、小さな手にぺしりと額を叩かれ我に返る。


『ほれ、小娘。呆けとらんで、今の内に逃げるぞ』
「あ、はい!」


山神に頷いて返すと、陽菜子は猪との距離をとるべく、踵を返して駆け出した。




*******




それから一時間近く、山神の指示に従って山の中を駆け回った後、ようやく陽菜子は一息入れる事が出来た。
崩れ落ちるように切り株に腰をおろした陽菜子は、荒い息を繰り返しながら天を仰ぐ。
全身が心臓になってしまったようにどくどくと脈打っており、足は疲れきって棒のようだ。

そんな風に、呻き声すらも出せないほど疲れ切っている陽菜子とは逆に、山神は元気良く彼女の肩から飛び降り、高らかに口笛を鳴らした。
すると、どこからともなく一羽のカラスが現れ、山神の前へ降り立った。
山神がひょいとその背に飛び乗ると、カラスはすぐに飛び立ち、周囲の上空を旋回しはじめる。
陽菜子はその黒い影をぼんやりと見上げていたが、暫くするとカラスは羽音を響かせて舞い降りてきた。


『ふむ、取りあえずは撒いたようだ』
「た……助かった」
『安心するのは早いわ、これから、御統玉を取り替えさねばならんのだぞ』


山神はそう陽菜子に返しながら、労うようにカラスの背を叩き、ひらりと身軽に飛び降りた。
カラスは甘えるように小さな鳴き声をあげ、頭を山神の腹へ擦り付けると、再び空高く羽ばたいて行った。


(そう言えば……)


そんな一神と一羽のやり取りを見るともなしに見ていた陽菜子は、ふと先程目にした不思議な光景を思い出していた。
それは、暴れ猪に追いつかれそうになっていた時の出来事である。

あの時、頭上から大量の葉が降ってきて猪の視界を奪ったおかげで、陽菜子はなんとか猪から逃げることができた。
おかげで陽菜子は今こうして五体満足でいられるわけなのだが、あの時、陽菜子はたくさんの鳥が羽ばたくような音を聞いた。
そして、その後、近くの木々に、枝を埋め尽くさんばかりの野鳥達が羽を休めているのを見たのだ。

その姿は、彼らが成り行きを見守るように、じっとこちらを見つめているかのようだった。
さらに、あの羽音と大量の葉が降ってきたことを合わせて考えてみれば、あんなことをしたのはその野鳥達なのだろう。
それはまるで、野鳥達が陽菜子や山神を手助けしたようにも思えた。


「あの、山神様」
『なんじゃ』


陽菜子が感じた事を正直に伝えると、山神はさもありなんと言うように大仰な様子で頷いた。


『あぁ、あれは森の眷族達よ』


腕を組み、目を細める山神は、どこか穏やかな顔をしている。


『同じ森に住む仲間とは、家族のようなもの。助けたいと思うも道理であろう』


だが、すぐに目をふせ、小さく首を振って溜め息を付いた。


『わしにとっても、あやつらは皆、我が子同然。子が苦しむ姿を見て、悲しまない親がいようか?』
「山神様……」


苦しげに呟く山神に、どう言葉をかければよいのか分からず、陽菜子は口を引き結んだ。
しかし、そんなしんみりした空気をぶち壊したのもまた、山神の一言であった。
山神はあっという間にいつものようにふんぞり返ると、陽菜子の鼻先に人差し指を突き付けた。


『つまりだ。あやつらを安心させるためにも、お主らには身を粉にして奮闘してもらわねばならん』


その言葉にげんなりとしつつ、ホッとしたのも事実で、陽菜子はほんの少し苦笑をもらしてから不満げに返事を返した。


「はーい」
『気のない返事をしおって。まぁ、良い。ほれ、もう十分に休んだであろう。幸い、天狗の腰掛けはすぐそこよ。神代の小僧は、既に辿り着いておるぞ』
「仕方がない、もうひと頑張りしますか」


よっこいしょと掛け声をかけながら立ち上がった時、突然背後から地響きのような音が聞こえてきた。


「え? なに……」


それは徐々に大きさを増しながら、確実にこちらに向かってきている。
嫌な予感に、陽菜子の背で冷や汗が流れた瞬間、バキバキと背の低い木々を踏み倒しながら、茶色の巨体が躍り出てきた。
陽菜子は顔を蒼白にして飛び上がると、さっと体を反転させてその場を駆け出した。


「ひぃょぇぇえええ!」


奇妙な悲鳴を上げながら、無我夢中で駆けていた陽菜子だったが、視線の先に古ぼけた看板を見つける。
それは、新しく整備された登山道への道筋を示したものだった。
看板によれば、このまま真っ直ぐ進めば間もなく旧道との合流地点に辿り着くはずだ。
新しい登山道に出れば、誰かに助けを求めることができるかもしれない。
そうでなくても、整備された道ならば、今より断然逃げ回りやすくなるだろう。

なんとかなるかもしれないと、そんな思いが一瞬陽菜子の頭を過った。
しかし、ふと考え直した陽菜子は、ある可能性に気付き、一気に顔色を悪くする。

今自分を追いかけているのは、神気にふれて我を忘れた暴れ猪なのだ。
そんな猪が、もし、新しい登山道で登山者と鉢合わせしたらどうなるか。

きっと、猪は、誰も彼も関係なく暴れまわり、人間を傷つけるだろう。
そういった獣がどうなるか、少し考えれば想像がつく。
捕獲されるか、悪くすれば銃殺される可能性だってある。


(そんなの……だめだ……)


蒼白な顔で、陽菜子は足を止めた陽菜子は、逃げ道を探して辺りを窺う。
そうしている間にも、地響きが背後から迫ってきていた。


(どうすれば良い? どうすれば……)


そんな時、恐怖と迷いで引き攣っていた陽菜子の頬を、小さな手がぴしりと叩いた。
はっと我に返った陽菜子は、己の肩に陣取っていた山神に目を向ける。
山神はどこか真剣な表情で、こんもりとした茂みへ向かう獣道の方を指し示す。


『小娘、あちらじゃ。その茂みの先に沢がある。そこへ向かえ!』


山神の言う沢なら、陽菜子も祠までの道中で目にしていた。
結構大きなもので、水の流れもそれなりにあったような気がする。
そんな水場へ行っても、逆に追い詰められ、逃げ場を失うのではないだろうか。

一瞬躊躇したものの、猪はもうすぐそこまで迫ってきていた。
迷っている時間などない。
ここはもう、山神を信じて進むほかないだろう。
陽菜子は覚悟を決め、茂みへと飛び込んだ。




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