寂れた祠にようやく辿り着いた陽菜子は、思わずがっくりと地面に手を付いた。
もう、これ以上は歩けないと思うほど、今日一日で歩きつくした気がする。
そんな彼女の頭に飛び移った山神は、ぷりぷりと不満を口にしながら足を踏み鳴らした。
「随分と遅かったではないか。待ちくたびれたわい」
「うぅ、これでも精一杯頑張って登って来たんです! もう一歩も歩けない……」
「なんじゃ、全く情けない。小娘は軟弱者じゃのう」
山神は呆れたように言い放ち、鼻で笑いながら嫌みったらしく首を振った。
そんな山神の態度に言い返す余裕すらなく、陽菜子はずるずると這うように近くの木に近づき、その根元に腰を下ろした。
一度落ち着いてしまうと、どっと疲れが押し寄せ、暫くはまともに立ち上がれそうにない。
陽菜子は流れる汗を拭い、大きく息を吐き出す。
さわさわと木陰に吹く風が、陽菜子の頬をなぜて通り過ぎ、火照った体に少しひんやりとした山の風が心地よかった。
そんな風に陽菜子が一時の休息を堪能していた時、頭上で野鳥が高らかに鳴いた。
その鳴き声に、山神と祥がハッとした様に顔を上げる。
「ふむ」
暫く真剣な表情でその声を聞いていた山神が、顎髭を撫でながら頷いた。
「おい、神代の小僧。猪の奴が見つかったようじゃぞ」
山神の言葉に、祥も黙って頷き返す。
そんな光景をぼんやり眺めていた陽菜子は、突然山神に前髪の付け根を引っ張られて悲鳴を上げた。
「ほれ、小娘も早よう立ち上がらんか」
「わ! いたたた、痛いですってば」
溜め息を吐きながら、何とか気力をかき集めて、よっこらしょと重い腰を上げる。
山神は満足げに頷いてから、陽菜子の頭を滑り降りて右肩に陣取った。
前を歩く祥に行く道を示す山神を横目で見ながら、陽菜子は胸の内でぶつぶつと文句を言う。
(もぅ、小妖怪も山神様も、ちびっちゃい人達って、何で髪の毛を引っ張るのかなぁ)
将来自分が禿げたら、何割かは絶対彼等のせいだと思われる。
もしそんな将来を迎えてしまった暁には、きっちりと責任をとってもらわなければならない。
「うわっ……ぷっ!」
そんな事を考えながら歩いていた陽菜子は、前で立ち止まっていた祥の背中に思い切り衝突する。
「ご、ごめん。考え事してて、ちゃんと前を見てなかったから……」
打ちつけた額と鼻をさすりながら、陽菜子は祥に謝った。
しかし、彼は陽菜子に応えず、じっと先を見据えたまま様子を伺っているようだった。
不思議に思いながら首を傾げた陽菜子だったが、彼女の肩に乗っていた山神が、何かを察したのかひょいと地面に飛び降りる。
ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして少し先の木の根本まで移動した山神は、草村の向こうを確認してから陽菜子達を手招いた。
「おぉ、あやつじゃ、あやつじゃ。見てみぃ」
どうしようかと顔を見合わせた二人だったが、祥は小さく息を吐いてから静かに山神のもとへと歩み寄る。
少し遅れて、陽菜子もその後を追って近づいてから、隠れるようにその場で身をかがめた。
「う……」
そこから草むらの向こうを覗いた陽菜子は、思わず大声を上げそうになり、慌てて己の口を抑えた。
(うそぉぉおお!)
「ふむ。どうやら、わしの神気を浴びて、ちと体が膨らんだようじゃな」
山神が興味深い様子で呟いていたが、陽菜子にはそんなことを気にする余裕はなかった。
何故なら、彼女の視線は目の前の光景に釘付けだったからだ。
視線の先にいたのは、普通の数倍はありそうな巨体を持つ一頭の猪だった。
彼の有名な邦画アニメの映画に登場した大猪とまではいかずとも、遠目からでも相当の迫力がある。
あの巨体で突進されては、陽菜子など一溜まりもないだろう。
猪は機嫌が悪いのか、ふごふごと鼻を鳴らしながら、前足でしきりに地面をかいていた。
「ちなみに、例の御統玉があれじゃ」
山神が示した方を恐る恐る確認した陽菜子は、一気に血の気が引く思いがした。
「無理無理、無理ですってば。あんなでっかい猪にほいほい近付けるわけないじゃないですか! しかも、御統玉が引っかかってるのって、牙ですよ! 一番危ないところじゃない!」
「えぇい、ぴーぴー騒ぐでない。そもそも、お主らその御統玉を取り戻すために来たんじゃろうが」
ぶんぶんと頭を降って後退る陽菜子に、山神は呆れたような視線を向ける。
確かに、自分は山神の御統玉を取り戻す為、へとへとになりながら山に登った訳だが、それとこれとは話が別だ。
陽菜子は運動神経が良いわけではないし、特別逃げ足が速いというわけでもない。
それに、大の大人でさえ、突進されてあの鋭い牙で刺されれば、大怪我をおうのだ。
何の武器も持たない非力な自分達に、何ができるというのだろうか。
自分や祥があの鋭い牙で刺される姿を想像した陽菜子は、いっそう顔色が悪くなる。
表情を引きつらせて固まる陽菜子に、山神は仕方がないと言うように溜め息を吐いてから、座り込んでいた大きな葉っぱからひらりと飛び降りる。
そのまま陽菜子に近づき、器用にその体をよじ登ると、ぺしりと陽菜子の頬を叩いてから、彼女が肩から掛けている猫鞄を指差した。
「何も、小娘に体をはれとは言うておらん。神凪から、取って置きをお主らに託したと聞いたぞ。ちと見せてみぃ」
頬を叩かれた衝撃で我に返った陽菜子だったが、それでも表情は晴れず、むしろ微妙な表情で猫鞄を見下ろした。
店を出てから祠にたどり着くまで、陽菜子は何度もこのぶさ猫鞄の中を確認していた。
時には引っくり返して降ってみたりもしたのだが、ゴミ一つ落ちてくることはなかった。
つまり、店長に託されたこの鞄の中には、何も入っていないのである。
しかし、中を確認するように、しきりに促してくる山神に押され、陽菜子は気乗りしないまま鞄に手を突っ込んだ。
(あれ?)
手を突っ込んだ途端、何かが指に触れ、陽菜子は小さく首を傾げた。
しかも、それは握りやすいように柄のような作りになっているらしい。
こんな大きな物が入っていれば、普通は手を入れたときに気が付くはずだ。
まるで、そこに急に現れたかのようなそれに、陽菜子は眉間に皺をよせた。
しかし、溜め息を吐いて首を振ると気を取り直してその柄を掴む。
何せ、店長の作るモノは普通じゃ無いことの方が多い。
このぶさ猫鞄にしたって、飛び跳ねたり、鳴き声を上げたりするのだ。
深く考える方が馬鹿らしい。
とにかく、役に立つなら何でも良いと言う気分で、陽菜子は握っていた物を引っ張り出した。
「……って、何じゃこりゃあ!」
出てきた物を数秒間凝視してから、陽菜子は思わず崩れおちると、その場に両手両膝を付いた。
それは、陽菜子も良く知っている物だった。
と言っても、テレビの中で見かける事が多く、実物を見たのは初めてである。
ビラビラと幾重にもおられた先端は扇状に広がっており、あの部分で頭を叩いたりしたらきっと小気味よい音がすることだろう。
がっくりと肩を落とす陽菜子の目の前に転がる白い物体。
それは、所謂、ハリセンと呼ばれる物であった。
(ハ……ハリセンって……、ハリセンって! これでどうしろって言うんですか、店長!! これで猪に突っ込めってこと? 突っ込む前に、逆に突進されて終了だよ。って言うか、下手をすると人生すら終了しかねないよ!!)
店長と知り合ってそれなりの時が経つが、未だに何を考えているのか分からない事がある。
謎かけのような言葉選びをしてみたり、思わず脱力するような見当違いの事を言ってみたり、かと思えば、まるでこれから起こる事を知っていて、それに挑む陽菜子達の反応を楽しんでいるんじゃないかと感じる事だってあるのだ。
まぁ、店長のことだから、これは単なる陽菜子の被害妄想で、本当は何にも考えていないのかもしれないが。
何せ、彼の突拍子もない言動に振り回されるのは、大抵の場合は陽菜子なのだった。
つまり、そんな風にひねくれた考えになっても仕方がないのである。
店長は祥にもちょっかいを出しているが、彼はそう堪えている様子はない。
むしろ、余裕さえ感じるのだが、これが長年の慣れというものだろうか。
以前、こっそりと対店長対策を聞いたところ、少し遠い目で「店長だから仕方がないと諦めることだ」と言われた。
しかし、陽菜子はまだ到底その域には達せそうにない。
そんな事を取り留めなく考えながら、陽菜子が大きく溜め息を付いたとき、隣にいた祥が唐突に陽菜子を呼んだ。
「藤森!」
「え? って、わあ!」
顔を上げる間もなく突き飛ばされ、陽菜子は少し地面を転がった。
慌てて顔を上げた途端、目の前を茶色い物体が物凄い勢いで通り過ぎる。
その直後地響きのような音と、僅かな揺れが陽菜子を襲った。
枝から落ちた葉が舞う中、陽菜子は唖然と目の前の光景を見つめる。
抉れた跡を辿っていくと、今まで自分が立っていた場所の草花はぺしゃんこに潰れている。
その先の大木の根本には、巨大な茶色の猪がうずくまっていた。
鋭い牙は木の幹に深々と突き刺さり、その衝撃の強さを物語っている。
一時的に動きを封じられた猪は、興奮した様子で甲高い鳴き声を上げながら、鼻息荒く地面をかいていた。
「うーむ、これはちいと不味いぞ。あやつ、あまりに長く神気に晒され過ぎて、我を忘れておる」
いつの間にやら陽菜子の肩に移動していた山神が、顎髭を撫でながら渋い顔で呟いた。
猪が狂ったように頭を振った次の瞬間、突き刺さっていた牙の周囲の木肌にヒビが入る。
(ひぃー!)
この分だと、猪が自由の身になるのに時間はかからないだろう。
そうなれば、次に押し潰されるのは草ではなく陽菜子達かもしれない。
真っ青になる陽菜子の肩で、山神が祥へと声を張り上げた。
「小僧、ここはひとまず、二手に分かれるぞ。天狗の腰掛けで落ち合うので良いな」
祥は一瞬陽菜子の様子を伺うように視線を動かしたが、一つ頷き身を翻して駆け出した。
彼の後を追おうにも、祥が走り去ったのは、猪を越えた向こう側だ。
あいにく、茶色の巨体が道を塞いでしまっており、陽菜子一人では越えられそうにない。
どうしたものかとおろおろしていた陽菜子の髪の毛を、山神が引っ張りながら木立の奥を指し示す。
「ほれ、何を間抜けな顔で突っ立っておる。ぺしゃんこにされたくないなら急がんか」
「え? あ、はい!」
我に返った陽菜子は、気合を入れるように自分の頬を軽く叩く。
とにかく、今は山神に従って逃げるしかない。
慌てて返事を返してから、陽菜子は踵を返して森の中へと駆けだした。