(ぐぁぁああ、いたぃー。あたま! また、あたまうったぁっ!)


強かに打ちつけた頭を抱え、陽菜子はごろごろと地面を転がった。
一瞬、チカチカとした星が浮かぶくらいには強烈な痛みだった。
衝撃で魂が抜け出さなかったのが不思議なくらいだ。

と言うか、この所集中して頭ばかりぶつけ過ぎだと思う。
この数ヶ月で、一体どれくらいの脳細胞が死滅しただろうか。
元々良くない頭が、さらに悪くなったらどうしてくれよう。

そんな事を考えながら、転がり続けていた陽菜子だったが、背中が何かに当たり動きを止める。
涙目のまま背後を振り仰ぐと、静かな表情の祥が自分を見下ろしていた。


「大丈夫か? 藤森」
「あ、うん。ごめん、大丈夫、です」


己の奇行を見られていた恥ずかしさで、陽菜子の顔が真っ赤に染まる。
ひくりと頬を引きつらせる陽菜子に、祥は少しかがみ込みながら片手を差し出した。


「……ありがとう」


もごもごと礼を述べながら、陽菜子は祥の掌に自分の右手をのせる。
ひょいと釣り上げられるようにして立ち上がらされた陽菜子は、パタパタと身体についた葉や枝を叩き落とした。


(あれ?)


何とはなしに視線を上げた陽菜子は、祥の瞳が琥珀色に輝いたような気がして、思わず小首を傾げる。
陽菜子はぷるぷると首を振り、目を擦ってもう一度彼の顔を確認した。
だが、自分よりも少し色素の薄い焦げ茶色の瞳が、訝しげに陽菜子を映しているくらいで、特に変わった様子はない。


(また見間違い……かな?)


難しい表情で首を傾げた陽菜子だったが、はたと重要な事を思い出し、慌てて祥に詰め寄った。


「そ、そうだ、神代くん。猪は!? 猪はどうなったの?」


掴みかかる勢いの陽菜子に、祥は一歩引いてから後を振り返る。
その視線につられるようにして、陽菜子は彼の背後を覗き込んだ。

そこにいたのは、ごく普通のサイズに縮んだ、一頭の猪だった。
横たわる猪の周りを、たくさんの動物達が取り囲んでいる。
彼らは小さな鳴き声を上げたり、猪の顔を覗き込んだりと心配そうに様子を窺っている。
そんな中、いつの間にか陽菜子の傍を離れていた山神が、猪に近付き、その鼻面にひょいと飛び乗った。


『ようやく戻ったか、手間をかけさせおって』


山神の声を聞いた瞬間、猪の耳がピクリと動いた。
そして、がばりと跳ね起きた猪は、親に泣きつく子供のように鳴き出した。


『良い良い、お主も辛かったであろう。良く耐えたな』


そんな猪の額を、山神は軽く叩きながら、優しく声をかける。
その猪の様子に安心したのか、周りを囲んでいた動物達が我先にと近寄っていく。
野鳥達は猪の頭や背に止まって囀り、子ウサギやリス達は猪の懐に潜り込む。
彼らの様子からは、本当に猪を心配し、無事に戻った事を喜んでいるのが伝わってきた。
何だかほっこりして、陽菜子の表情が知らず知らずの内に緩む。


(山神様ったら、案外しっかり山神様なんじゃない)


自分を代理と称した山神も、動物達の輪の中に自然と溶け込んでいる。
彼らは、体の大きさも、種も、生きた年月も全く違う。
だというのに、たった一頭の仲間の無事を、皆が心から喜んでいるようだった。
ああしてお互いを気遣う様は、彼らの絆の力を見せつけられるようで、何だか少し羨ましく思えた。


「……森の生き物達って、本当に家族みたいなものなんだね」


ぼんやりと動物達を見つめながら祥に声をかけ、不意にそちらを見上げた陽菜子は、思わず唇を閉じて目を見開いた。
隣に立った祥は、陽菜子とは対照的な表情をしていた。
元々、彼は表情豊かな人間ではないが、それでも呆れたり、口元を和らげたりとそれなりに分かりやすい時もある。
しかし、今の祥は、全くの無表情であった。


「神代、くん?」


陽菜子の声に、祥ははっとしたように隣を見下ろした。
何回か両目を瞬いてから、まるで気持ちを落ち着けるように静かに息を繰り返す。
そうして、ようやく動き出した彼は、近くの岩場に置いてあったハリセンを手に取る。
戻ってきて陽菜子に手渡すと、祥は踵を返してその場を後にする。


「帰ろう、藤森」
「あ……、うん」


すぐに元に戻ったものの、先程の祥の様子は明らかにおかしかった。
だが、声をかけようにも、漠然とした違和感を言葉にするのは難しい。
祥の後ろを歩きながら、陽菜子は戸惑いの表情を浮かべ、前を行く背中を黙って見つめる。
だから、去りゆく二人を、山神がじっと見ていた事に気付くことはなかった。




*******




暴れ猪の一件から数日経ったある日の午後、陽菜子は学校での授業を終え、商店街の店に向かっていた。
賑わう表通りを抜け、細い路地裏へと入ると、どう言う訳だかほっと小さくため息が出る。

一度だらりと気を抜いた体に力を入れ、陽菜子がしゃんと背筋を伸ばした時、店の入り口から黒猫が出てきた。
僅かばかり開いた引き戸の狭い間をするりと抜けた黒猫は、陽菜子に気付くと、まるで挨拶でもするかのように一声鳴いた。
そして、近くの家の塀に軽やかに飛び乗り、あっと言う間に雑踏へと消えていった。

何とはなしにその姿を見送っていた陽菜子は、はっと我に返ると再び店に向かって歩き出した。
カラカラと戸を開けると、ちょうど店長が長机の上でメモ用紙に何かを書き込んでいるところだった。


「店長、こんにちは」
「あ、ひなちゃん、お帰り」


店長は陽菜子の声に手を止め、顔を上げて返事を返す。
その横を通り過ぎ、陽菜子は店の奥に学生鞄を置きに行く。
従業員用の狭い和室に荷物を置き、制服の上着を脱いで、スクールブラウスの上からエプロンを着ける。

後ろ手で背中の紐を結びながら面に出ると、店先に店長の姿は見当たらなかった。
首を傾げ長机に歩み寄った陽菜子は、その上に見慣れないものを見つけた。
大きな葉っぱに乗っていたのは、様々な種類の茸に、木の実、細長い筍のようなもだった。
なぜこんなものがあるのかと不思議に思っていると、店長が表から戻って来る。


「店長、これ、どうしたんですか?」


陽菜子が指をさしつつ尋ねると、店長は一度首を傾げてから、葉っぱに目を向けて納得したように頷いた。


「あぁ、これね。山神様がこの前のお礼にって、持ってきたんだよ」
「え、山神様、来てたんですか?」


あれから全く音沙汰が無かったものだから、まさか山神自ら再び山を降りてくるとは思ってもみなかった。
驚きに目を丸める陽菜子に、店長はからからと笑い声を上げる。


「朝一番にふらっと来て、すぐに帰っちゃったけどね。眷族達と一緒に採ったから、皆で食べてくれってさ」


陽菜子の問いに笑顔で答えると、店長はふっくらと肉厚な椎茸を一つ手にとった。


「筍も良いけど、春椎茸って身が締まってて、香りが良いんだよね」


確かに、程よく焦げ目のついた椎茸に、ちょっと醤油を垂らしたらとても美味しそうだ。
一口齧れば、きっと醤油の芳ばしさと、椎茸の香りが口の中に広がるだろう。
少し想像しただけでも、陽菜子の口の中にじわりと唾液が出てきた。


「と言うわけで、今日はお店は臨時休業! 今、祥くんが、七輪を探してくれてるから、早速中庭で焼いて食べよう。せっかくだから、とっておきの日本酒、おろしちゃおうかなぁ」


浮き足立った様子の店長が、どこからか大きな平皿を取り出す。
そこにひょいひょいと茸や筍を盛り付けると、軽い足取りで店の奥へときえていく。


『酒じゃ、酒じゃ』
『宴じゃ、宴じゃ』
『美味い酒に肴とくれば』
『踊って歌って相撲じゃろう』


その後を、どこで聞いていたのか、宴会好きの小妖怪達が列をなして追い掛ける。
どうやら、相伴にあずかるつもりらしい。
賑やかな一行を見送ってから、陽菜子は残された木の実に視線を落とす。
鮮やかな赤や黄色の実からは、少し甘酸っぱい香りがした。
赤い実を指先でちょんと突きながら、陽菜子が思い出したのは、あの日、元に戻った猪に駆け寄る動物達の姿だ。
彼らが協力しながら、一生懸命この木の実や茸なんかを集めてくれたのかと思うと、ほっこりと胸が暖かくなる。


(今度、ぼた餅を持って、もう一度あの山に登ってみようかな)


またへろへろになって、山神には嫌味を言われるかもしれない。
でも、その顔中にべっとりと餡子がついているだろうことを思うと、ついつい陽菜子の口元が歪んでしまう。
自分の顔より大きなぼた餅を、無心で食べる山神を想像し、ふき出しそうになった陽菜子は、慌てて己の口を両手で覆った。
何とか笑いを治めて深呼吸をしてから、長机の前に置かれた丸椅子に腰掛け、ぺとりと机に顎をのせる。


(そう言えば、神代くん。あの時ちょっとおかしかったなぁ)


不意に思い出したのは、山を後にする直前の祥の様子である。
あの時の祥は、雰囲気と言うか、空気と言うか、どこかピンと張り詰めていたような気がする。
あの後、何度か声をかけようかと思いながら、結局何も尋ねる事ができなかった。


(悩み事があるなら、言ってくれれば良いのに)


陽菜子は、決して頭が良い方ではないが、愚痴を聞いたり、一緒に悩んだりする事くらいはできるはずだ。
彼は、陽菜子が幽体離脱事件で困っていた時に助けてくれた。
寂しくて、不安で、どうしようもなかった自分に、手を差し伸べてくれたのだ。
だから、祥が何か悩んでいると言うのなら、できる限り力になりたい。


(って言っても、勉強の事とかだったら困っちゃうんだけど)


最近、バイト終了後に一時間ほど、勉強会をするようになったのだが、陽菜子はどちらかと言えば、勉強を教えてもらっている側である。
出来の悪い生徒である自覚はあるが、祥は嫌な顔一つせず、根気よく教えてくれる。


(……何か、私、お世話になってばかりかも)


少し落ち込んだ陽菜子は、空笑いした後に、がっくりと肩を落とした。
そんな哀愁漂う背中に、脳天気そうな店長の声がかかる。


「ひなちゃーん、手を洗って早くおいで。先に食べちゃうよ!」
「あ、はーい! 今行きまーす」


慌てて返事を返すと、陽菜子は靴を脱いで片手に持ち、店の奥へと入っていく。
店の中庭では、すでに小妖怪達が酒の杯を巡って相撲勝負を始めていた。


(まぁ、とにかく、一旦考えるのは止め。美味しいものを食べて、腹ごしらえしよう)


丁度おやつに頃合な時間で、育ち盛りの陽菜子の腹は正直な音をたてていた。
それに、腹が減っては戦はできぬと言う、素晴らしい諺もあることだ。
賑やかな宴に混じるため、陽菜子は笑顔を浮かべて駆け出した。




 
 
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