陽菜子が恐々近付いて行くと、白樹はさわさわと静かに枝を揺らす。
側まできて、改めて見上げると、その大きさに圧倒される。
幹は数人で腕を伸ばさなければ囲めないほど太く、天辺を見ようとすれば、殆ど真上を向かなければならない。
よくあるファンタジーの世界樹を実物化したら、きっとこの樹の様なものなのだろう。
ある種の感動を覚えて佇む陽菜子を、白樹は優しく誘った。


『コッチ、コッチヨ』
『良ク顔ヲ見セテ』
『間違イナイワ、人ノ子ネ』
『ソウネ、デモ、魂ダケネ』
『身体ハドウシタノカシラ』


不思議そうな白樹の声に我に返り、陽菜子はここに来た理由を思い出す。
店長が絵本の挿絵で指し示したのは、この大樹の側に描かれた白く輝く鉱石だった。
それに、祥もこの樹の近くに来れば目的のモノが手に入ると言っていた。
ならば、この白樹が鉱石を手に入れるための鍵になるのだろう。
陽菜子は落ち着くために唾を飲み込み、両手を握り締めると樹へと語りかけた。


「あの、私、身体から魂が抜け出してしまって……。それで、元に戻してもらうためにここに来たんです」


自然と張り上げる形となった陽菜子の声に、白樹は葉擦れの音を伴ってさざめく。


『可哀想ニ』
『人ノ子ハ、魂ト身体ガ一緒デナケレバナラナイノデショウ?』
『ナラ、助ケテアゲマショウカ』
『デモ、私達ガアゲラレルノハ雫ダケヨ』
『人ノ子ニハ扱エナイワ』


雫という言葉に、陽菜子ははっと息を呑む。
そう言えば、挿絵の鉱石はどこか水滴の形と似ていなかっただろうか。
きっと、目的のモノとは白樹のいう《雫》なのだろう。
陽菜子が雫について伝えようとした時、相談を続けていた声の内の一つが思い出したように呟いた。


『アラ、デモ、外ニハ神凪ガ居ルワ』
『ソウダッタ、神凪ガ居ルノネ』
『ナラ、大丈夫ネ』


聞きなれない言葉を耳にして、陽菜子は口にしようとしていた言葉を飲み込んだ。
そんな陽菜子の様子には気付いていないのか、白樹は何かに納得して話を進めだした。
どうやら、雫をもらえる流れのようだが、決め手になった不思議な言葉が気になる。


「かんなぎって、一体……」


思わず陽菜子が呟いた声が聞こえたのか、白樹達は口々に神凪について説明を始めた。


『神凪ハ神凪ヨ』
『神凪ハ境界ヲ見ル者ヨ』
『幾度モ代ワリナガラ、全テノ膜ヲ見テイルノ』


白樹は彼らの感覚で話しているのか、陽菜子には全く話の内容が理解できない。
謎は深まるばかりで、結局、かんなぎが何であるのかを知ることはできなかった。
白樹は首を捻る陽菜子を不思議そうにしていたが、やがて口々に陽菜子を呼んだ。


『サァ、モット近クヘ』
『雫ヲアゲル』
『両手ヲ出シテ』


陽菜子が言われるまま手を出すと、突然枝が一節折れて落ちてきた。
真っ白な枝の先は二股に別れ、それぞれに幾枚かの葉が付いている。
その右側の葉の影に、小さな殻に包まれた実が生っていた。


「え、枝が……」


慌てて顔を上げると、軽やかな笑い声と供にたくさんの枝が音を立てて揺れる。


『コレデモウ大丈夫』
『神凪ガ元ニ戻シテクレルワ』
『ソウシタラ、マタ、イラッシャイ』
『タクサンオ話シヲシマショウ』


どこか遠くから、りーんと、高く鈴のなるような音が聞こえた。
その音と供に、次第に笑い声やさざめきが小さくなっていく。


『……――今度ハ狐ノ子モ一緒ニネ』


穏やかなその囁きを最後に、白樹は完全に沈黙した。


「あの……」


陽菜子の声に答えるモノはおらず、ただ静かに葉がざわめく音が聞こえるだけ。
だが、それに混じって、密やかな笑い声が聞こえてくるようだった。


「……ありがとう、また来ます」


白樹を見上げて呟くと、陽菜子は踵を返して岸に向かって駆け出した。




*************




「神代くん!」


弾んだ息のまま名を呼ぶと、祥も陽菜子の方へと近付いてくる。


「白樹の雫は貰えたのか?」
「雫って言うか、急に枝が一節落ちてきて」


片手を膝に置き、荒い息を整えながら、右手に握っていた枝を突き出す。
挿絵の鉱石とは違うが、白樹が自らの枝を折って与えてくれたものだ。
何か意味があって、これを陽菜子に渡したのだろう。
確認するようにそれを観察していた祥は、一つ頷いて答える。


「それで、間違いない」
「え? でも……」
「戻ろう。店長も待ってるだろうから」


てっきり、これを利用してあの鉱石を手に入れるのだとばかり思っていた陽菜子は首を傾げる。
だが、ふとあることを思い出し、さっさと背を向けた祥に慌てて声をかけた。


「あ、でも、どうやって帰るの? 私達が入ってきた入り口は使えないでしょう」


祥は振り返ると、陽菜子の目の前に何かを突き出した。
少し離れて見てみると、それはユニークな顔つきをした猫の顔を模った鞄だった。
口の部分がジッパーになっていて、そこから物を出し入れするようだ。
それにしても、目の前の少年が持つにしてはあまりに似合わなさ過ぎる。
手渡された鞄をためつすがめつ眺めながら、陽菜子は小首を傾げた。


「えっと、これ、何?」
「店長から、目的のモノが手に入ったら使えと渡された」
「……枝を入れれば良いってことなのかな?」


どうやら、彼の私物ではなかったようで、そこはかとなく安心した。
しかし、店長という人もよく掴めない人物だ。
こんな気遣いをするくらいなら、何かをする前に事前に説明してくれる方が何万倍も嬉しいのに。
少し呆れながらも、陽菜子は枝を入れるために鞄の口を開けた。
その瞬間、急に鞄が飛び跳ねて、陽菜子の手から転がり落ちる。


「うわ! なっ、何?」


思わず飛び上がり、目の前にいた祥の背中に縋りつく。
目を丸めて鞄を凝視していると、鞄の猫は潰れた様な不細工な鳴き声を上げる。
そして、あくびをするようにぐわりと口を開け、宙に飛び上がった。


「へ?」


鞄は二人の前で、口を開けたまま一旦停止する。
だが、細い瞳を煌かせると、一気に巨大化し襲いかかって来た。


「うわぁ!!」


なすすべもなく、陽菜子達は猫の口の中に飲み込まれる。
暗闇の中に二人の姿が完全に見えなくなる頃、猫は口を閉じて満足そうにゲップをした。
そして、目を瞑るとぽさりと地面に落ちる。
数秒の後、猫の鞄は溶けるようにその場から消えていった。




次へ 
 
前へ 
 
目次へ