「ひぃいやぁぁあああ!!」
暗闇を真っ逆さまに落ちながら、陽菜子はあらん限りの大声を上げていた。
この年で紐なしバンジーの恐怖など、知りたく無かった。
(しぬしぬしぬしぬ! 幽霊だから死なないんだろうけど、気分的に死ぬ!)
耳元では轟々と風を切る音が響き、底は未だに見えてこない。
思わずぎゅっと目を瞑った途端、激しい水音と供に自分が水中に飛び込んだ事を知った。
慌てて目を開け頭上を確認すると、光りを反射してたゆたう水面が見える。
必死に手足を動かして、陽菜子は水面を目指して泳いだ。
「……っぶは!」
詰めていた息を勢い良く吐き出し、肺一杯に空気を取り込む。
どうやら自分が飛び込んだのは、小さな泉だったようだ。
規模の割に深かったようで、その点では助かった。
もし泉が浅かったなら、思い切り底に頭を打ち付けていたかもしれない。
ぽたぽたと落ちる水滴と、額に張り付く前髪が鬱陶しくて陽菜子は何度か首を振った。
息が整うと、ようやく周りを見渡す余裕が出てきた。
今自分がいるのは、広い洞窟のようだ。
薄暗いながらも全体が青い光に包まれており、時折壁の一部が蛍のように淡く発光している。
壁の隅の方に、鉱石の結晶がいくつもあるその光景は、ちょうど目にしたばかりだ。
「……ここ、さっき見た絵本と同じ……」
絵本の方がいくらかデフォルメされていたものの、まず間違いはないだろう。
「藤森」
「うわ!」
一体どうなっているのかと唖然としていた陽菜子だったが、突然声をかけられ飛び上がらんばかりに驚いた。
慌てて振り返ると、泉の岸に祥が立っていた。
「え……神代くん?」
てっきり独りきりだとばかり思っていた陽菜子は、瞬きをしながら祥を見返す。
彼は岸にしゃがむと、陽菜子の方へと手を差し出した。
祥の意図が掴めず、その手と顔を交互に見つめると、彼は少しだけ眉根を寄せる。
「手を伸ばせ」
祥の行動の意味を理解し、陽菜子は頷きながら手を打つ。
ありがたく彼の手を借りることにして、岸に向かって泳ぎ自分も手を伸ばした。
「はぁ、助かった」
泉から上がった陽菜子は、両手を膝につき大きな息を吐いた。
気持ちを切り替えて顔を上げると、じっと此方を見ていたらしい祥と目が合う。
「ありがとう、神代くん」
笑みを浮かべながら礼を言うと、祥は少し驚いたように陽菜子を見た後、顔を逸らして頷いた。
そんな彼を見詰めて、陽菜子は小首を傾げる。
出会ってからまだそれ程経っていないが、祥とはよく視線が合う割にすぐ逸らされてしまう。
恥ずかしがり屋なのだろうかと考えながら、陽菜子はふと上を見上げた。
はるか頭上に明るい光を見つけ、思わず声を上げる。
「ねぇ、私達、あそこから落ちてきたってことだよね」
頷く祥を確認してから、陽菜子はもう一度上を見上げた。
階段らしい物もなく、壁には手足を引っ掛けるような場所もない。
どうやら、あそこから外に出るのは難しいようだ。
諦めて溜め息をつき、陽菜子はがくりと項垂れた。
「それにしても、店長も一言言ってくれれば良かったのに」
「あの人は、いつもこうだ」
陽菜子の呟きに、祥は疲れたような声で返す。
だが、慣れがある分、彼の方が気持ちの切り換えが早いらしい。
凭れていた壁から背を離し、祥は洞窟の奥を指差した。
「行こう、藤森。材料があるのは、ここよりずっと先だ」
「あ、うん」
歩き出した祥の後を追って、陽菜子も足を踏み出した。
*************
「それにしても、ここって本の中なんだよね。何か全部本物っぽくて調子狂うな」
淡く照らされる洞窟の中を、きょろきょろと見回しながら、陽菜子はぽつりと呟いた。
そう言えば、幽霊になってから触覚が鈍くなっている気がしたが、ここに来てからは嫌に鮮明だ。
徐々に乾いてきてはいるが、水を吸った制服が肌に張り付き気持ちが悪い。
もし、この本の中で何か怪我でもしたら、現実ではどうなるのだろう。
洞窟内のひやりとした空気もあって、陽菜子は身を震わせた。
自分の想像を振り払うため、陽菜子は勤めて明るい声を上げる。
そんな中、隅の方に小さな花をつけた植物を見つけ、笑みを浮かべた。
「わぁ、神代くん、見て。綺麗な青い花だ」
可愛らしい花に近付こうとした陽菜子だったが、祥に腕を掴まれて慌てて振り返る。
「触らないほうが良い」
祥のどこか真剣な様子に、陽菜子は立ち止まって小首を傾げる。
綺麗な色の動植物は毒を持っている事が多いと言うから、この花もその類だろうか。
だが、祥の予想外の答えに、陽菜子は思わず顔を引き攣らせた。
「食肉植物だから、下手をすると噛まれる」
「そ……そうなんだ」
こんなに可憐な花が肉食だと言うのだから、自然とはなんとも恐ろしい。
そっと目を逸らし、陽菜子は祥に続いて洞窟の奥を目指した。
更に先へ進むと、段々と道端が狭くなってきた。
川のように地下水が流れる脇を、壁伝いに歩きながら陽菜子は祥に話しかける。
「何か、洞窟だし、ひんやりしてるし、鍾乳洞みたいだね」
彼は無口なようで、答えが返ってくることが少ない。
だが、黙っているのも何だったので、陽菜子は一人で話し続ける。
暫くそうして歩いていた二人だったが、目の前を歩いていた祥が唐突に立ち止まった。
不思議に思って彼の様子を伺っていると、祥はぽつりと声を漏らす。
「怖くないのか?」
「え?」
どこか硬い声色に、陽菜子は内心で首を傾げる。
陽菜子が黙っていると、再び彼は静かに話し出した。
「訳が分からないまま、本の中に吸い込まれるなんて。普通、気味が悪いだろう」
「うーん」
僅かにこちらを向いた顔は、いつもの無表情と変わらない。
じっと観察するように見詰められ、陽菜子は口元を引き攣らせた。
しかし、顎に手を置き、陽菜子は真剣に考える。
「そりゃあ、ちょっとと言うか、凄く驚いたけど……」
道から転げ落ちて、幽霊になって、本の中に吸い込まれて、紐なしバンジーを体験して。
16年間生きてきた中で、最も目まぐるしい一日だろう。
ちょっと寂しい想いをしたりもしたが、店に来てからは怖いとか気味悪いとか、嫌な気持ちにはそれ程ならなかった。
「変なことがありすぎて、逆に麻痺しちゃった感じかな」
陽菜子は頭を掻きながら苦笑を漏らす。
何だかんだで、店長も祥も嫌な人には見えない。
「それに、私を見つけてくれたこと、本当に嬉しかったの」
不安で押しつぶされそうになっていた時、陽菜子を真っ直ぐに見詰めた琥珀色の瞳。
きっと、これから沢山のことを経験するだろうが、あの時のことは一生忘れないだろう。
彼の目が和らいだ瞬間、じわじわと侵食していた絶望が、一瞬で消えていくのが分かった。
「だから、何だこれーっとは思うけど、怖くはないかな」
ふわりと笑った陽菜子を、祥は暫らく黙って見詰めていた。
だが、踵を返すと再び奥へ向かって歩き出す。
「藤森」
「うん?」
「あんた、変わってるって言われないか?」
少し前を行く祥の背中を見ながら、陽菜子は顔を顰めた。
「えー? 言われたことないけど、そんなに変なこと言ったかな……」
ぶつぶつと呟きながら、陽菜子は首を傾げる。
だから、少年がほんの少し口元を和らげた事を、彼女は知らない。