散々泣いたせいか、陽菜子の喉はからからで、瞼も熱を持って腫れぼったい。
きっと、酷い顔をしているだろうな、と陽菜子は苦笑を漏らした。
脱力感に暫らく放心していると、目の前にハンカチが差し出される。
水で湿らされたそのハンカチを辿っていくと、無表情でこちらを見下ろしている祥と目が合った。
「……ありがとう」
出てきた声はやっぱり擦れていて、陽菜子は心の中で小さく笑う。
ハンカチを受け取ると、祥はもとの壁際に戻って行った。
濡れハンカチで目元を押さえていると、店長が陽菜子の身体の前で少し難しい顔をした。
「ただね、ちょっとした問題があるんだよね」
「問題……ですか?」
店長の言葉に、陽菜子は不安げにハンカチを握る。
安心していただけに、問題と言う言葉が嫌に頭の中で響いた。
まさか、戻るのに何年もの時間がかかるとか、対価が必要とか、そう言うことだろうか。
緊張しながら店長の言葉を待っていると、彼は目を細めて宙を見た。
「魂を身体に戻すのは簡単なんだよ。でもね、一度魂が抜けるとさ、抜け癖がついちゃうんだよね」
「抜け癖って、例えばどんな?」
取り合えず、元に戻るのは簡単らしく、陽菜子は安堵の溜め息をつく。
抜け癖というのも、脱臼癖や捻挫癖なんていうのと同じようなものだろう。
二度もあんな風に転がり落ちる予定はないし、強く頭を打ち付けなければ大丈夫なはずだ。
そう高をくくっていた陽菜子だったが、続いた店長の言葉に衝撃を受けた。
「うーん、くしゃみした途端に魂が飛び出ちゃうとか、肩を叩かれた衝撃で飛び出すとか、後は……」
「ちょっ! それって、日常生活危うくないですか!?」
「うん、まず、ここから無事に家に帰れるかすら怪しいね」
「そんなぁ」
がくりと床に倒れこみ、陽菜子は打ちひしがれる。
そんな風に、ぽろぽろ魂が抜け出すなんて、冗談ではない。
涙目で床にへばりついていた陽菜子の肩を、店長が元気付けるように叩く。
「だから、ここで僕の腕の見せ所ってわけ」
ぱっと起き上がり、陽菜子は店長に縋りつく。
彼の背後に、後光が射しているように見えるのは、気のせいだろうか。
店長は笑顔のまま、人差し指を立てて説明を始めた。
「要するに、ひなちゃんの魂を身体に縛り付ける鎖を作れば良いんだけど、一番オーソドックスなのがお札ね」
「それって、魔よけの壷に悪霊を封印する的な、あれですか?」
「あたり! ひなちゃん凄いね!」
「絶対嫌です」
陽菜子が想像したのは、昔見た妖怪映画のワンシーンである。
額に護符を貼られた彼らの姿を思い出し、必死になって頭を振った。
しょっちゅう魂が抜け出すのも嫌だが、一生額に札を貼って生きるのも嫌だ。
「うん、僕も自分だったらお断りだね」
にこやかな笑顔で返され、陽菜子は自分の顔が引き攣るのが分かった。
先程、後光が見えたのはやはり気のせいだったらしい。
こんないい加減な大人を、はたして信用して良いのだろうか。
壁際でこちらを見ていた祥に目を向けると、そっと視線を外された。
「で、次に考えられるのが、アクセサリーかな。ああ言うのなら、ずっと身に着けててもおかしくないでしょ」
(あ! 今度はまともだ!)
陽菜子が四つん這いのまま打ちひしがれていた間にも、店長の話は進んでいたらしい。
ようやく出てきた普通の案に、陽菜子は勢い良く顔を上げた。
「だけどね、ここでまた問題が出てくるわけ」
店長の話を聞くため、陽菜子は姿勢を正して正座する。
彼は思案するように顎に手を置き、小さく息を吐いた。
「さっき、ちょうど倉庫の確認をしてたんだけど、材料で足りないものがあるんだ。あれがないと、鎖としての意味がなくなっちゃうんだよね」
「それは、どうすれば手に入るんですか? 私、できることなら何でもやります!」
ようやく見えた光りを逃すわけにはいかない。
陽菜子は必死に手を挙げて主張を繰り返した。
「そうだね、僕じゃあ、ちょっと材料を取りにいけないから、ひなちゃんにお願いしようかな」
立ち上がった店長に続き、陽菜子も彼の後を追う。
店長は何かを探すように棚を交互に確認し、一冊の本を取り出した。
パラパラとページを捲っていた店長は、何かを見つけたのか手を止めて床に本を広げる。
「うーんとね、その材料っていうのが、これ」
「……え?」
彼が指差したものを覗き込んだ陽菜子は、数秒間固まった後に思わず声を漏らす。
振り返りたくないと主張する首を無理やり動かし、横にしゃがみ込む店長に視線を向けた。
「あの、店長?」
「ん、なーに?」
「これって、絵本……ですよね」
「うん、その通り」
「欲しい材料って、実在してるんですよね?」
「そう、この本の中にね」
爽やかな笑顔を浮かべる店長に眩暈を覚え、陽菜子は勢い良く頭を抱えた。
確かに、自分は変人でも奇人でも構わないとは思った。
縋れるものなら、何だって縋ってやると決めた。
でも、本当にここまで変な人だとは思わないではないか。
しゃがみ込んだまま悶々と考え込んでいた陽菜子は、隣で店長が立ち上がったことに気付かなかった。
「と言うわけだから、ひなちゃん」
とん、と突然背中を押され、陽菜子は目を見開く。
何の準備もしていなかった身体は、前のめりに倒れ込んだ。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「……は?」
絵本に額をぶつける直前、空気がゆらりと揺らめいた。
そのまま吸い込まれるようにして、陽菜子の姿は絵本の中に消えていった。