幼き頃、葵は好奇心旺盛な子供であったらしい。
まるで口癖のように、何故、どうして、と質問しては大人たちを困らせていたそうだ。

 大抵、そういった葵の疑問に答えてくれるのは、里で一番の物知りである大婆様だった。
彼女の屋敷にはたくさんの本があって、葵は文字が読めるようになってからは、大婆様の屋敷に通っては本を読みふけった。

 里という狭い世界しか知らない葵にとって、あふれんばかりの本は宝の山だった。
偉人の伝記に、里にまつわる昔話、様々な絵物語達は彼の胸を躍らせた。
そんな訳で、葵は里の男児にしては珍しく、剣や弓の鍛錬よりもそういった読み書きの方を好んだ。

 あれはまだ、十になったばかりのころだったか。
夢中になって書物にかじり付いていた葵は、自分の名を呼ばわる大婆様の声を聞いた。
はっと顔を上げると、辺りはすっかり夕暮れ時で、西の空が夕日で赤く染まっている。

 慌てて立ち上がった葵は、その拍子に肩を書棚にぶつけてしまった。
あっと思う間もなく、上の方に積まれていた書物が幾つかバサバサと音を立てて崩れ、その内の一つが運悪く葵の頭に直撃する。
痛みに涙を浮かべながら、その分厚い本に視線を向けたところで、葵ははっと目を見張った。

 落ちた時にたまたま開いた場所に描かれていたのは、複数の人物が集まった姿絵だった。
皆一様にめかし込み、それぞれが煌びやかな装飾の付いた服を着ている。
その中で、中央よりやや左に並んだ、周りよりも頭一つ分背の高い人物に、葵は小さく感嘆の声を上げた。

 その人は見たこともない眩い金色の髪に、藤色の瞳をしていた。
彼はとても穏やかな笑顔で、斜め前に座る黒髪をゆるく結い上げた女性に微笑みかけている。
女性の方も少しはにかみながら、美しい金色の髪の男性を眩しげに見上げていた。
まるでどこぞの物語から切り取ってきたかのような、とても綺麗で不思議な絵だった。

 魅入られたようにそれを覗き込んでいた葵だったが、唐突に伸びてきた皺だらけの手が彼の視線を遮る。
我に返って顔を上げると、そこにいたのは表情を硬くした大婆様だった。
彼女は本を閉じると、それを葵の手が届かないような高い棚へ片づけてしまう。
それを残念に思いながら、葵は大婆様へ尋ねた。

「大婆様。あの絵の中に居た、不思議なかたはどなたですか? あの、ぴかぴか光った、美しいひとです」

 いつも葵の疑問に、淀みなく答えてくれる大婆様が、この時ばかりは暫くの間口を閉ざした。
葵の心を見透かすようにジッと見つめた後、掠れた声で呟くように言った。

「あれは“鬼”じゃ」
「“鬼”、ですか?」

 大婆様の言葉に、葵は小首を傾げた。
彼が好んで読む英雄の物語にも、鬼はよく登場する。
大抵の場合、鬼は立派な体躯を持ち、顔は恐ろしく、口や頭には牙や角が生えていた。
とても、先ほどの綺麗な人が同じ鬼とは思えない。
そう葵が返すと、大婆様は小さく首を振る。

「“鬼”はとても美しく、とても恐ろしい」

 大婆様は葵の両肩に手を置き、諭すように言った。

「特に、金はいけない。あれは、私達の全てを奪っていってしまう。葵様、よう覚えておきなされ。決して、“鬼”に近づいてはならぬよ」

 じっとこちらを覗き込んでくる瞳に、葵は思わずごくりと唾をのみ込んだ。
いつもは暖かく自分達を見守ってくれる大婆様の黒い瞳が、この時ばかりはとても恐ろしいもののように思えた。
暗く澱んだ闇のように、暫くその視線は葵の心に重くまとわりついていた。




**********




 節々が訴える痛みに、葵はピクリと眉を顰めた。
全身に気怠さが重く伸し掛かり、指先一つ動かすことさえ億劫だ。
それでも何とか気力を振り絞り、葵は震える瞼を開いた。

 初めに葵の視界に飛び込んできたのは、ピンと張った真っ白な敷き布だった。
湿っぽい生乾きの布が放つ嫌な臭いではなく、燦々と輝く太陽のしたで日干しした洗濯物のそれだ。
そこに、ほんの少しだけ、潮の香りが混じっている。
さらさらとした手触りが気持ちよく、葵はほっと息をついた。

 倦怠感と睡魔に負けて瞼を閉じかけた葵は、そこで自分の置かれた状況を思い出した。
ひくっと息を呑みこんでから、大きく目を瞠り、慌てて上体を起こす。

 恐々と己の身体を見下ろしてみれば、縛られていた筈の両腕は解かれ、見たこともない服を着ていた。
着物とは違い、身体の線に沿うような変わったつくりではあるが、今まで着せられていたボロ布とは比べものにならない。
鬼に捕らえられてから着た服の中で、間違いなく上等な部類に入るだろう。

 そのまま辺りを見渡せば、意識を失う直前まで転がされていた、明らかに倉庫という場所でもない。
普段葵が知っているものよりも幾分か脚の長い丸い机と、それに合わせたように背の高い椅子が二脚。
そして、今己が横たわっていた、寝具と思われるものが一台置かれている。

 それらがようやく収まるような狭さではあるが、間違いなく人が生活できる部屋だ。
放心したようにそれらを見つめていた葵であったが、不意に顔を向けた先に映った光景に目を見開いた。

「扉が……」

 意図したわけでもなく、ぽつりと葵の口から声が漏れた。
それは何の変哲もない木の扉であるにも関わらず、視線を合わせたまま逸らすことができない。

 緊張から呼吸が忙しなくなり、葵の喉から乾いて掠れたような声が漏れる。
ふらりと寝具から足を下した葵は、一歩、また一歩とそちらへ近づいていく。
それほど大きな部屋ではないのに、扉までの距離がいやに長く感じ、最後は半ば走り出すようにして足を動かした。

 伸ばした指が扉の取っ手にかかるかと思われた時、何かに右足をとられ、葵はつんのめるようにして床に手をつく。
一体何がとそちらを見やれば、己の右足に黒い鉄の輪が嵌められていた。
それには重たく、頑丈そうな鉄鎖がつらなり、部屋の一番奥にある太い柱に繋がっている。

 こんなものが付いていながら、今まで気づきもしなかった自分に唖然とした。
今更になって、足枷に擦れて赤くなった皮膚がじわじわと痛み出す。

 葵は鎖を引きずりながら部屋の奥に戻り、柱に嵌められた大きな鉄の拘束具を無表情で見下ろした。
自分の足にあるものよりも3倍くらい太く、大きなそれは、がっちりと柱に食い込んでどうやってみても外れることはなさそうだ。
己の右足に嵌る枷も、きっと同じように容易には取れないだろう。

 葵は力なく座り込むと、馴染みのない四つ脚の寝具に背中を預ける。
己の右足で主張する黒い鉄の輪を指でなぞれば、冷たい感触がまるで自分の先行きを暗示しているかのようだった。
深く息を吐き出してから、葵は頭を逸らして板張りの天井を眺める。

 自分の立場を少しは理解しているつもりであったが、それをまざまざと見せつけられたようだ。
少し足を動かせば、じゃらりと重たい鎖の擦れる音がする。

(あぁ。これでは、本当に“奴隷”ですね)

 葵は立てた片膝にこつりと頭を乗せ、唇を噛んで目を閉じる。
勘違い、したのだ。
あまりにも穏やかな目覚めであったから。

 自由になれるのではないかと、一瞬でも思い描いてしまった自分が愚かだった。
じわじわとこみ上げる苦い思いに、葵は自嘲を浮かべきつく両手を握りしめる。

 その時、不意に扉を叩くような硬質な音が部屋に響いた。
はっと息を呑み、葵は身体を起こしてから、じっと扉を見つめる。
もう一度扉が叩かれてから数拍後、がちゃりと取っ手が音を立てて動いた。

 扉を開けて中へ入ってきたのは、黒髪の男だった。
驚きに声を上げそうになったが、その瞳の色を認め、内心で落胆の息を吐く。
彼の目の色は、故郷にあるはずのない琥珀色だった。

 こんな場所に、同族がいるわけがあるまいに、己は何を期待していたのか。
馬鹿な事を考えたと、葵は首を振って皮肉交じりに唇を歪める。
だが、次の瞬間、葵は間抜けにもあんぐりと口を開けることとなった。

 「オハヨウゴザイマス」と。
琥珀色の瞳をした鬼は、葵に向かってそう声をかけたのだった。





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