あまりにも驚きすぎて、葵の思考は完全に停止していた。
唖然としたまま二の句が告げられずにいる葵に、鬼はもう一度「オハヨウゴザイマス」と口にする。
やはり、どう聞いてみても、鬼の口から零れているのは聞き慣れた自分達の言語だ。
答えを返せずにいる葵の態度を、意図が伝わらなかったととったのか、鬼は僅かに首を傾げて葵に尋ねた。
「朝ノ挨拶、違イマスカ?」
「あ、いいえ。その通り、です、が……」
困惑の表情はそのままに、葵は肯定の意を返す。
片言ではあっても、それは間違いようもなく、馴染み深い言葉そのものだ。
「あなたは、その、私の言葉がお分かりになるのですか?」
「少シ。私ハ、“夜ノ民”ノ研究ヲシテイマス」
戸惑いがちに尋ねた葵に、鬼は一つ頷きながら答える。
その中に意味の分からない言葉をみつけ、葵は眉を顰めて小首を傾げた。
正確に言えば、言葉自体は理解できるが、それが何を意味するかが分からない。
「“ヨルノタミ”?」
「貴方達ヲ呼ビマス。黒イ髪、黒イ目、バター色ノ肌ノ人々」
思わずといった風に呟いた葵に、黒髪の鬼は律儀にも答えを返す。
彼の答から推測するに、自分達が彼らを“鬼”と呼ぶのと同じようなことだろう。
髪も目も言うほど真っ黒という訳ではない気もするが、色鮮やかな鬼からすれば黒と変わらないようだ。
黒は夜の色、だから、それを纏う我々一族は夜の民。
実に単純な名付け方だが、逆に分かりやすいともいえる。
納得すれば良いのか、呆れればよいのか、取りあえず葵は小さく肩を竦めた。
そんな葵を観察するように見つめていた鬼は、やがて何かを口にしようとして、唐突に眉間に皺を寄せた。
顎に手を当てたまま、彼は暫く考え込んでいたが、ふっと息を吐き出すと懐から何かを取り出す。
手渡されたのは分厚い一冊の本で、随分と読み込んでいるのか表紙はボロボロだった。
「……これは?」
古そうな本に興味をそそられ、矯めつ眇めつ眺めていると、鬼は本を開くような仕草をする。
小首を傾げながら本を開き、中の文字に視線を落とした葵は、思わず息を呑んだ。
やや古風な言い回しを含んではいるが、そこに書き連ねられていたのは、紛れもなく自分達の言葉だった。
「どう、して……」
呆然としすぎて、文字の上をただ滑るだけだった視界の端に、鬼の腕が伸ばされる。
彼は何枚か紙を捲り、ある一文を示してから、背後の机へと視線を投げた。
≪まずは食事にしましょう。お話はそれからです≫
その指がとんとんと叩いたのは、“食事”と書かれた項目の一例文だった。
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黒髪の鬼の名は、ローと言った。
彼は『ていこく』の出身で、医学を学ぶ傍ら、夜の民について密かに研究をしていたのだそうだ。
そのおかげで、夜の民の文字や言語はある程度理解できるらしい。
会話は機会に巡り合うことが殆どなかった為不得手とのことだったが、鬼は概ね葵の話す言葉を聞き取っていた。
どうしても伝わらない部分は、お互いに辞書を引いて、それを示すことで意志の疎通は図れる。
何の憂いもなく鬼と交流を持つ自分に軽く驚きながらも、葵は彼の話を聞いていた。
ローが伝えてきた話によれば、鬼の国(所謂、帝国だ)は葵達の里からずっと南西に下ったところにあるらしい。
葵達が彼らを殆ど認識していないのとは逆に、彼らはそれなりに葵達の民族を知っていた。
ただ、数百年前に葵の一族が他との関わりを絶ってからは、交流も途絶えていたのだそうだ。
彼がそんな独特な民族である夜の民に興味を持ったのは、医学校を卒業して間もなくの事であった。
研究については単に趣味の域を出なかったが、それでも彼らの独自の文化は暇つぶしとしてはそれなりに面白かった。
元々、医学の方は家に強制されていたようなもので、毎日が苦痛でしかなかったのだ。
そんなある日、彼は不意に全てがどうでも良くなったのだそうだ。
全てを捨てて、どこか遠く、そう例えば北の大地にでも行けたらどんなにか清々するだろうと。
そうして彼は、一番初めに目についた船に乗り込んだのだそうだ。
それが商船だろうと、奴隷船だろうと、客船だろうと、海賊船だろうと、遠くへ行けるものであれば何でも良かったのだそうだ。
大人しそうな顔をしているわりに、中々豪胆な性格である。
感嘆するやら、驚愕するやらで、どんな表情をして良いのか困っている葵に、ローは手元の紙に文字を書き込んだ。
古語の混じった言葉を苦労して読み解いてみれば、それは己を研究対象として観察させて欲しいといった旨の内容だった。
「はぁ、それは構いませんけれど……」
そのいっそ人を人とは思っていない様子の言葉に、葵は逆に肩の力が抜ける心地がした。
彼にとっては、自分は運よく転がり込んできた観察対象でしかないのだろう。
そこには好奇の色も、嫌悪の色も、侮蔑の色もない。
何の感情も混じらない観察者としての視線は、逆に至極楽だった。
そうして、不意に月夜の下で妖しく光る瑠璃色の瞳を思い出す。
抑えつけられ、此方の心情の何もかもを無視される屈辱は、今思い出しても背筋が凍る。
憎悪と、嫌悪と、何故か腹の底で燻る訳の分からない熱に、葵はピクリと肩を震わせた。
やめて、放っておいて、私を掻き乱さないでと、耳を覆って叫べたのなら、どんなにか胸のすく思いだろう。
思わず指先に力が入り、手に触れていた食器がカチャリと耳障りな音を立てた。
ハッと我に返り顔を上げてみれば、琥珀色の瞳がじっと葵を見つめている。
咄嗟に誤魔化す様な愛想笑いを浮かべてから、葵は彼に返事を返す。
「私は職人でも技術者でもありませんから、あなたの研究のお役に立てるかは分かりませんよ?」
暫し物言いたげにこちらを見ていたローであったが、葵に何も話す気が無いのを悟ると、諦めたのか溜め息をついて肩を竦めた。
気を取り直したようにペンを取ると、さらさらと紙に言葉を綴っていく。
何でも良い、例えば里の様子や、年間行事、普段日常に行われていることでも、話を聞けるだけで十分だと。
真剣な琥珀色の瞳で乞われれば、頷かざるを得なかった。
結局、葵は毎日少しずつ里の話をし、その見返りに“帝国語”を習うという約束で話は纏まった。
最後に辞書を返そうとすると、逆に笑顔でそれを押し返される。
自分はもう暗記するほど読んだものだから、葵にくれるという事だった。
慌てて首を振るが、ローは頑として辞書を受け取ろうとはしない。
「では、ありがたく使わせていただきますね」
最終的に、根負けした葵がそれを譲り受けることでその場は納まった。
確かに、これから必要になる物であることは間違いないのだ。
苦笑交じりで顔を上げた葵は、じっとこちらを窺うローに、たじろいだ様に固まる。
「あの……」
おずおずと声をかけた葵に、彼はすっと腕を上げ、自分の首筋を軽く叩いた。
「暫ク、しゃつハ襟元マデ止メタ方ガ良イデス」
ローの言葉に怪訝そうに眉を顰めた葵であったが、唐突に目を見張り、勢いよく己の首筋に手を当てて俯いた。
零れた黒髪から覗く耳が真っ赤に染まっているのを見下ろして、ローは内心で小さく溜め息を吐く。
「用事ガデキマシタノデ、コレデ失礼シマス」
爆弾を落としたローの方は、特に表情を変えることなく一言言い置くとさっさと部屋を後にする。
残された葵は、恨みがましい目付きで閉ざされた扉を睨み付けた。
「はぁぁ……」
重く、深い息を吐き出して、葵はのろのろと寝具まで戻り、その上に身を投げ出した。
葵の動きに合わせて、じゃらりと鎖が音を立てたが、それを意識的に遮断する。
頭の中は既に飽和状態で、もう何も考えたくない。
横になっていれば、心身は疲れ切っているのか、ゆるゆると瞼が落ちてくる。
それに抗うことなく、葵は大人しく睡魔に身を委ねることにした。