「わぁ、凄いや。髪も目も本物だよね? 黒曜石みたいに真っ黒だ!」
「えっ、と……」

 新緑のような瞳をキラキラと輝かせながら、少年は興味津々といった体で葵の顔を覗き込む。
その様子に圧倒され、思わず身を引きながら、葵は小首を傾げて曖昧な笑みを浮かべた。
少年が再び話しかけようと口を開いた時、部屋のドアが音を立てて開かれる。

 駆けこんできたのはボルトで、普段は何を考えているのか掴み所のない彼にしては珍しく、大変慌てているようだった。
柔らかく癖のある赤毛が、いつも以上に奔放に乱れ、まるで炎のように逆巻いている。

「こーらぁ、坊ちゃん! いつまで逃げ回ってるつもりなの、観念しなさい!!」
「うわっ、ボルト!」

 驚いて目を丸くする葵とは対照的に、少年は表情を引き攣らせると、隠れるように葵の背後に回り込む。
唐突に盾にされた葵は、戸惑いながら己の背に隠れる少年を振り返る。
ボルトは葵など目に入っていないのか、腕を組んで深々と溜め息を付きながら、葵の後ろから顔を覗かせる少年を見下ろした。

「あのねぇ、坊ちゃん。いつも言ってるけど、海ってのは楽しいだけじゃないの。辛いことも、苦しいことも、同じくらいたくさんあるんだぞ」
「そんなの、分かってるよ」

 ボルトの説教じみた物言いに、少年は目を眇て頬を膨らませる。
一方のボルトはと言えば、首を振って彼の言葉を否定し、ビシリと指を突きつけた。

「いいや、分かってないね。下手をしたら死んじまう可能性だってあるんだ。ちなみに、俺は今、まさに生死の境目に直面している!」
「何だよ、それ。意味分かんない」

 何故か踏ん反り返って自慢気なボルトに、少年は訝しげな視線を向ける。

「だーかーら! 坊ちゃんが大人しく捕まってくれないと、俺がメリッサとアレクシスに殺されるってこと!!」
「何だ、じゃあ、ボルトが犠牲になってくれれば、丸く収まるってことじゃないか」
「ぎゃー、俺を生け贄にするつもりか! 坊ちゃんの人でなし!」

 自棄になったように一気に捲し立てるボルトに対し、少年は清々しいまでの笑みを浮かべた。
そんな少年の様子に、ボルトはぐしゃぐしゃと髪を掻き乱して悲鳴をあげる。
今まで完全に茅の外であった葵だったが、情緒の安定しないボルトに、思わず引き攣った表情を浮かべた。
だが、二人の会話が途切れた頃合いを見図り、意を決して声を掛ける。

「あの……」

 さも今気がついたとでも言うように、ハッと顔を上げたボルトは、数度瞬きをしつつ身を起こした。
そうして、ポリポリと頭を掻きながら葵を見下ろし、苦笑いを浮かべる。

「あー、悪い、悪い。ちょっと大事な用事でさ。坊ちゃん捕まえたら、さっさと出てくから」
「俺は、ここから一歩も動かないからね」
「だー! 坊ちゃん、いい加減に……」

 ボルトの言葉に、少年は不満げな表情のままそっぽを向く。
非難の声を上げながら、ボルトが尚も言い募ろうとした時、第三者の冷ややかな声がそれを遮った。

「おい、ぎゃあぎゃあ煩いぞ、ボルト。眉間に風穴開けられてぇのか?」

 そう言いながら部屋へ入ってきたのは、あの金髪の男だった。
眉根には彼の心情を現すように深い縦皺が刻まれ、人を殺せそうなほど剣呑な空気を纏っている。

「あー……」
「アレクシス……」

 彼の様子を見たボルトは顔を蒼白にして頭を抱え、少年は気まずそうに俯く。
そんな二人を交互に見やってから、葵は金髪の男へと視線を移した。

 不機嫌そうな彼を眺めていた葵は、そう言えばこの男と昼間に会うのは初めてだったと気が付いた。
己の背後でしょぼくれている少年よりややくすんだ色合いだが、それでも日の光を受けた金糸が葵の目には眩しく映る。

 だが、何より葵が驚いたのは、彼の瞳の色だった。
眼帯に塞がれていない、一つきりの瑠璃色の瞳は、太陽の下で全く違う色を見せていたのだ。

(……紺碧の、海だ)

 初めて明るい光の中で目にした彼の隻眼は、鮮やかな蒼であった。
どこまでも続く、広い大海原と同じ色。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと男を見詰めていた時、不意に男が葵の方へと顔を向けた。
思わず身を強張らせた葵であったが、紺碧の瞳は夜とは打って変わって凪いでいる。

 そのせいか、瑠璃色の瞳と対峙した時に感じる、あの背筋を這う妙な感覚はない。
暫くそうして葵と視線を交わらせていた男であったが、やがて何事もなかったかのように少年へと顔を戻して口を開いた。

「リオ、お前、何で船に忍び込むような真似をしたんだ」

 彼へ問い掛ける声は静かで、部屋へ入ってきたときのような激情は見受けられなかった。
見知らぬ少年ではあるが、手を上げられるようなら黙って見てはいられない。
そうなった時は、何とかしなければと考えていた葵は、ひとまず安堵の息をつく。
呼び掛けられた少年も、怖がっていると言うよりは、どちらかと言えば叱られる子供のような態度だ。

「だって……」

 ただ、少年としても言い分はあるようで、俯いたままもごもごと口ごもっていたが、ぐっと唇を噛んで顔を上げると、半ば怒鳴るように声を張り上げた。

「だって、もうすぐ母さんの誕生日なのに、父さんが帰って来られないって言うから! だから、俺が父さんを連れて帰れば良いんだって、そう思って……」

 しかし、悪いことをしたという自覚はあるのか、徐々に頭を垂れながら声を小さくしていく。
黙ってそれを聞いていた金髪の男は、少年が口を閉ざすと、呆れたようなため息を吐いた。

「お前なぁ、テネロリアまで、船でどれくらいかかると思ってんだ。あっちに着くのは、ちょうどメリッサの誕生日頃だぞ。どうやって親父を連れ帰るっつもりだったんだ?」
「そ、そんなぁ」

 帰りの行程までは考えていなかったらしい少年は、男の言葉に涙を浮かべて肩を落とす。
気落ちして黙り込んでしまった少年を見下ろしていた男だったが、ふっと息を吐いて組んでいた腕を解くと踵を返した。
彼は部屋を出る直前、事の成り行きを見守っていたボルトへ声をかける。

「おい、ボルト。後で俺の所にマックスをよこせ」
「良いけど、何で?」
「メリッサに連絡すんだよ。今頃、血相変えてリオのこと、探し回ってんだろうからな」
「……了解」

 ボルトの返事を聞くと、男は今度こそ扉を閉めて部屋を出て行った。
それを見送り、足音が遠ざかるのを聞いてから、ボルトは深々とため息をつく。
片手で目元を覆って天を仰いでから、気の抜けたような声を漏らした。

「あー、今度会った時のメリッサの反応が恐ろしい」
「……ごめん」

 そんなボルトの独り言に、弱々しい声が被る。
すっかり意気消沈してしまった少年を横目で見下ろし、ボルトはポリポリと頬を掻いた。
そうして、苦笑を浮かべながら、俯いたままの金髪を乱暴に掻き混ぜる。

「ほーら、坊ちゃん。何時までしょぼくれてんの。乗っちまったもんはどうしようもないんだし、あっちに着いたら父ちゃんにお祝いの手紙でも書いてもらえよ」
「……うん」

 ボルトの言葉で少し気持ちが落ち着いたのか、少年は小さく頷いて返す。
いつまでも悲しませておくのも忍びなく、葵も彼の顔を覗き込みながら精一杯の慰めの言葉を口にする。

「だいじな人に、おいわい、もらえるのは、とてもうれしいことです。きっと、お母さまもよろこぶ、です」
「うん。ありがとう……」

 幾分かぎこちないとは言え、ようやく笑顔を見せた少年に、葵もほっと息を吐き出した。
この、太陽のように明るい少年には、沈んだ顔より笑顔の方が良く似合う。
暫くもじもじとしていた彼だったが、気持ちを切り替えるように大きく頷いてから葵を見上げた。

「ねぇ。君の名前、何て言うの?」
「なまえ、ですか?」
「え? だって、呼べないと不便じゃないか」

 よもやそのような事を問われるとは思っていなかった葵は、驚きに目を瞬かせて小首を傾げる。
同じように首を傾げて見せてから、少年は笑みを浮かべて片手を差し出す。
差し出されたそれが、何を意味するのか分からず戸惑っていると、彼は不満げに唇を尖らせる。
強制的に葵の右手を取ってから、少年は葵に自分の名前を伝えた。

「俺の名前は、リオだよ。君の名前は?」
「……私は、橘 葵といいます」
「へぇ、そんな名前だったのか」

 葵が戸惑いがちに答えると、ボルトが独り言のように呟く。
言われてみれば、この船に乗せられてから、一度も名乗っていないという事実に気付いた。

 葵の行動範囲はこの部屋の中だけだから、他に人が居ることは殆どない。
だから、名を呼ばれずとも不便を感じることはなかったし、そもそも葵の心情的には、そこまで気を回す余裕などなかった。
名を呼ばれないことに異常を感じないほど、自分は気を張り詰めていたらしい。

 その異常さに気付かせてくれたリオの方は、葵の名を覚えるのに必死で、何度も何度も繰り返しては首を捻っている。
彼らにとって葵の里の言葉は難しいらしく、所々間延びしたり、不思議な発音になっていた。

「えっと、たてぃばーな?」
「た、ち、ば、な、です」
「たぁ、ちぃ、ばぁ、な?」

 ゆっくり、一文字一文字区切って発音してみるが、中々上手く言葉にならない。
きっと、自分の話す帝国語も、彼らにはこの様に聞こえるのだろうなと思うと苦笑が漏れた。

「……あおい、のほうが、らくですか?」

 ふと思いついて名の方を伝えると、苗字よりはよほどそれらしい言葉が返ってきた。
リオは何度か、あおい、と繰り返すと、自分でも納得できたのか一つ頷いて葵を見上げる。

「じゃあ、改めて。ありがとう、葵!」
「はい、どういたしまして、リオくん」

 リオは元気良く名を呼びながら、握りしめた葵の右手を上下に振る。
その満面の笑みにつられるように、葵も少年の名を呼びながら笑みを零した。





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