町の人間が大方寝静まった石畳の道を、アレクシスは一人歩いていた。
カツカツと鳴る靴音が耳に響き、嫌でも静けさを訴えてくる。
酒場や娼館のある通りから一本道を逸れただけだというのに、まるで別の町に来たかのようだ。
せっかく陸に上がったにも関わらず、こうして虚しくあの場から抜けなければならなくなった経緯を思い出し、アレクシスは顔を歪めて舌打ちをした。

 船着き場に着いてすぐ、船を降りたアレクシスは、ボルトや他の船員達と共に酒場になだれ込んだ。
今回の航海でも、それなりの収穫を得ていたから、宴は大いに盛り上がった。

 上手い酒に豪勢な料理を、道すがら手に入れた煙草をふかしながら次々に腹におさめていく。
昔に比べれば各段にましになったとは言え、船上での食事はどうしても質素なものになる。
だから、こうして陸に上がった時は飲めや歌えの大騒ぎになるのだ。

 そうして、粗方腹が膨らめば、次は決まったように娼館になだれ込む。
娼館の女主人も慣れたもので、手際良く船員達に妓を宛がっていく。

 そんな風にして、アレクシスに宛がわれたのは、まぁまぁ申し分のない妓だった。
豊かに波打つブロンドの、この娼館でも人気の高い娼婦であるらしい。   
香水の匂いがきついことを除けば、それなりに話も上手く、顔の方も悪くない。
そして、何より胸がデカかった。

 今夜は当たりを引いたと、アレクシスは上機嫌でその妓を部屋へと連れ込んだ。
そこまでは、いつもと特に変わりはなかった。

 しかし、いよいよことに及ぼうとしたにも関わらず、全く気分が盛り上がらない。
妓の柔らかい体を堪能すれば、それなりに興奮はするが、いまいち気が乗らないのだ。
細い指が官能的に己の胸をはい、普段ならばとっくに事を始めていてもおかしくは無いのに、一体どうしたというのだろうか。

 自分の体ながら解せない反応に、アレクシスは思わず眉間に皺を寄せる。
それをどうとったのか、妓の行為はますます大胆になっていく。

 ややぽってりとした赤い唇が、とうとう下肢に辿り着く時になって、アレクシスはぐいとその華奢な肩を押し返した。
唐突に行為を止められ、唖然とする妓をベッドに残し、彼はさっさと服を着始めた。
それを目にした彼女は、機嫌を損ねたのか何やら強い口調で捲し立てている。

 耳障りな甲高い声を、憮然とした顔で聞き流しながら、アレクシスは足早に部屋を出て行った。
確かに直前になって中断するなど、ベッドの上ではマナー違反だろうが、ここでは全てが商売事だ。
払うものは払っているのだから、一方的に文句を言われる筋合いはない。

 苛立った気持ちそのままの足音に、廊下を歩いていた人々は自然と壁際に寄る。
そうして出来た道の先を、妓の腰を抱いたボルトが歩いて来た。
廊下の異様な雰囲気に気づいたのか、顔を上げた彼は苦虫を噛み潰したような表情のアレクシスを見つけて小首を傾げる。

「あれ、アレクシスじゃん。どうしたの? もしかして、もう終わっちゃったの? ちょっと早すぎなんじゃない」
「うるせぇな、やってねぇよ」

 にやけた顔で冷やかしてくるボルトをじろりと睨み付け、アレクシスは不機嫌丸出しの声で答える。
暫し目を瞬かせてアレクシスを見下ろしていたボルトは、やがて真剣な顔つきで彼の顔を覗き込んだ。

「えー、いつもなら、部屋入ったら朝まで出てこないじゃん。なに、調子でも悪いの?」
「何でもない。気分が乗らなかっただけだ」

 本気で心配しているような声色に、嫌そうに顔を顰めたアレクシスは片手でボルトの顔を押しのける。
納得していない風ながらも、具合が悪いわけではなさそうだとふんだのか、彼は気を取り直して隣に立つ妓に声をかけた。

「ふーん。彼女、アレクシス好みの金髪豊満美女だったのに。もったいないのー、ねぇ?」

 ボルトの横について来ていた彼女は、彼のある意味失礼ともいえる発言に、黙って微笑み返している。
大人しそうな顔をしながら、案外と強かな妓なのかもしれない。

 そんな彼らの様子を眺めながら、ふと先ほど部屋に置いてきた妓を思い出す。
さすが人気の娼婦と言えば良いのか、自分の技能に自信があるらしく、以前は同時に何人かの相手をしたことがあるのだとも話していた。

「何なら、お前、二人まとめて相手してやったらどうだ? 奥の部屋貸してやるぜ」
「え? 本当に! 君、どうする?」

 冗談交じりにそう言うと、ボルトは目を輝かせて食いつく。
一応、隣の妓にお伺いを立てるくらいの甲斐性はあるらしく、小首を傾げて問いかけた。

「どうぞ、旦那さまのお好きになさって下さいな」

 彼女達にとってはそれ程驚くことでもないのか、暫し考えるようにしてからあっさりと頷いた。
どうやら纏まりつつある話を背に、アレクシスは再び歩みを進める。

 ボルトがこちらに向かって何かを言っていたようだったが、聞き返す前に廊下と階段を隔てる扉の向こうに消えた。
わざわざ扉を開けて聞き返すのも可笑しな話だから、アレクシスはそのまま螺旋階段を下りる。
船員達がいくらか羽目を外すだろうからと、女主人に割増しの金を払ってから彼は娼館を後にした。

 こうして一人悶々と思い返してみても、実に己らしくなく不可解な点が多すぎる。
そうこうしている間にも、自然と足は船に向かっていたようで、ふと気が付けば港まで戻ってきていた。
これからまた酒場まで引き返すのも面倒で、アレクシスは大きく溜め息を吐いてグシャグシャと頭を掻いた。

 もうこうなったら、今日は船に残っているラム酒でも飲んで眠ってしまうより他にない。
一晩眠れば、このもやもやとした気分も多少は晴れるだろう。
そうしたら、改めて酒場にでも娼館にでも行けば良い。

 そう考えて顔を上げたとき、明かりのついた船室の窓辺に人影があるのに気付いた。
室内の明かりに照らされてやや影になっているが、それは先日船長室で話題に上がった黒髪の奴隷だった。
本でも読んでいるのか、窓辺の影はじっと俯き加減で手元に集中している。

 その時、彼が唐突に顔を上げ、首を回して軽く肩を揉んでから、再び顔を俯けた。
顔にかかった横髪が鬱陶しかったのか、彼は垂れてきた黒髪をすくって己の耳にかける。
それを目にした瞬間、アレクシスは思わず息を止めた。

 不意に思い出されるのは、細く指通りのよい黒髪と、底の見えないような夜色の瞳。
月の光の元、象牙色の滑らかな肌が上気してほんのりと赤く染まり、薄いが意外と柔らかい唇が唾液に濡れ、その奥の赤い舌がまるでこちらを誘う様にちろりと動く。
ふっと吐き出した己の吐息に、どことなく熱が籠っているのを感じた。

(あぁ、喉が、渇いたな)

 唐突に覚えた口渇感に、アレクシスはごくりと喉を鳴らした。




**********




 何度か辞書を捲りながら、葵はローから譲り受けた本を読んでいた。
いくらか帝国語が分かるようになったとはいえ、彼の持つ書物は初心者が読むには難しく、一日にやっと数頁という進み具合だ。
少しずつしか読むことができないため、暫くするとどうしても前の記憶が曖昧になってしまう。
その都度、戻っては読み直すのを繰り返し、最近ようやっと半分近く読み終わったところだ。

 一旦、ふうと詰めていた息を吐き出し、葵は固く張ってしまった肩を揉む。
根を詰めてしまうためか、どうしても肩や首、目が疲れやすくなる。
切りの良いところまで読んだら、少し休憩しようと考えながら、葵は再び手元の本に視線を落とした。

 最近伸びてきた横髪が垂れて煩わしく、無意識の内に耳に掛けてから文字を読むのに集中する。
直後に分からない言葉が出てきて、葵は苦笑しながら辞書に片手を伸ばした。
その時、静かな部屋の中にノックの音が響き、葵は顔を上げた。

 栞の代わりにしている飾り紐を挟み込み、本を閉じてから扉に足を向ける。
本来ならば、自分が扉を開いて迎え入れるのが礼儀だろうが、生憎足の鎖が邪魔をしてそれは難しい。
相手が扉を開けるのを待っていると、部屋に入ってきたのはローだった。

 その予想外の人物に、葵は僅かに目を丸める。
ボルトはこちらの都合などお構いなしに、夜遅くであろうと早朝だろうと、嵐のようにやってくる。
逆に、ローが来訪するのは概ねが昼前から昼下がりの午後であった。
だから、てっきり来たのはボルトであると思い込んでいたのだが、そう言えば彼は今夜娼館に出掛けているのだったか。

 楽しげに報告することではないと思うが、ボルトは昨夜そんな話をしてこの部屋を出て行った。
葵が思わず息を吐くと、ローはばつが悪そうに苦笑する。

『すみません、この様な非常識な時間に来てしまって』
『え? あ、別に構いません。と言うかですね、別にこれはローさんに溜め息をついた訳ではなく……』

 慌てて弁解をする葵に、ローは小首を傾げていたが、ボルトの話になると呆れたように肩を竦めた。

『なる程、溜め息を付きたくなる気持ちも分かりますね』
『でしょう。でも、余りにも楽しそうに話されるので、何だかこちらも面白いような気になってしまって』

 まだ完全に気を許してはいないものの、ボルトは思いの外話し上手な人間だった。
時折葵の部屋へふらりとやって来ては、面白おかしい話をたくさんしてくれた。
この部屋から出られない葵にとって、彼の話は本と同じくらい楽しみになっている。

『今回も、帰ってきたら武勇伝を聞かせてくれるそうですよ』
『馬鹿話の間違いでしょう』

 くつくつと笑いながら昨日の話をすると、ローは首を振って眉間に手を当てた。
そこではたと我に返り、葵は首を傾げながら彼に問いかける。

『ところで、ローさんはどうして此方へ?』
『あぁ、そうでした。あの馬鹿のせいで大事なことを忘れる所でした』

 ローは眇めていた瞳を一瞬丸めてから、ごそごそと懐を探り始める。
そうして、布に包まれた何かを取り出し、葵の前に差し出した。
思わず手に取ってからローに視線をやると、開けてみるよう促される。

 開いた布から現れたのは、三冊の本だった。
葵がローから預かっているものとは違い、子供でも読めるような本が二冊。
それから、もう少し難しめの大人でも楽しめそうな本が一冊。
驚いて顔を上げると、ローは悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。

『帝国語を学のにも、暇つぶしにも良いかと思いまして。私の本では、まだ少し難しかったでしょう?』
『こんな……、素敵なものを頂いては……。どうお礼を言って良いものか』

 戸惑いがちに礼を言う葵に、ローは笑顔で首を振った。

『いえ、こちらこそ、あなたのおかげで研究が捗っているのです。ですから、これは夜の民について話を聞く、ほんのお礼だとでも思って下さい』
『……ありがとうございます。大切にしますね』

 せっかくこうして贈ってくれたのに、いつまでも遠慮しているのも逆に相手に失礼だろう。
心からの感謝を込めて、葵は深々と頭を下げた。

 それからローを見送って、葵はさっそく窓辺に戻り、椅子に腰かけて本を開く。
一冊目の本は、子供向けであるためか、簡単な表現で書かれており、挿絵も入っていて内容も分かりやすい。
辞書を使わずに読めるかもしれないなと思いながら、葵は次の本も開いてみる。

 もう一冊は伝記のようなもので、帝国のとある冒険家の一生について書かれたものだった。
こちらも児童書らしく、挿絵や年表などの図がたくさん使われている。

 最後のやや大人向けな本は、流石に文字ばかりであったが、娯楽本のようでローの本よりは格段に読みやすい。
前の二冊が辞書なしで読めるようになったら挑戦しようと決め、葵はまず伝記を読むことにした。

 それを暫く読み進めたころ、葵の耳がこちらに近づいてくる足音を拾う。
音は迷いなく進み、この部屋の前で止まった。
ローが用事でも思い出して戻ってきたのかもしれないと考えながら、葵は本を机に置いて立ち上がる。

 しかし、部屋の前で止まった足音の主はなかなか部屋へ入ってこようとしない。
どうしたのだろうかと眉根を寄せて、葵は扉の向こうにいると思われるローに向かって声をかけた。

『ローさん? 何かお忘れ物でも……』

 そう声をかけたところで、ゆっくりと扉が開かれた。
入ってきた人物を見上げた葵は、そのままの格好で固まり目を見開く。

 月明かりの中で、こちらをじっと見下ろしていたのは、ローではなかった。
そこに立っていたのは、忘れたくとも忘れられない、あの金色の髪を持つ男だった。




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