それから程なくして、船はアムセンの港へ入港した。
いつ人がやってくるかと気を張っていたにもかかわらず、終ぞ部屋の扉が開くことはなかった。
久しぶりに羽目を外せる高揚からか、扉の外では浮ついた声や、駆ける靴音が聞こえ、それが次々と部屋の前を通り過ぎていく。
そうして、居残りの組を残して、概ねの船員たちが港町へと降りて行った。
若干拍子抜けした葵は、溜め息を付きながら窓のそばに近づいて港を眺めおろした。
窓から眺める港町は、夕焼けに照らされ、所々に明かりが灯り始めている。
何の変哲もないこの小さな町で、奴隷の売買をしているとは考えにくい。
やはり、ここではない場所でそういった事を行っているのだろうか。
或いは、葵の存在自体が忘れ去られているのか。
葵を無理矢理抱いたあの金髪の男が、この船の船長であると知ったのはつい3日前のことだ。
随分と若い船長だが、彼は幼いころから船に乗っているらしく、船員としては古い方であるらしい。
特に聞きたいわけではなかったが、ボルトがそのような事をペラペラと話していた。
あの忌まわしい夜以来、あの男とは会っていなかった。
気まぐれな男であるらしいから、つまらない奴隷の事など頭の隅に残ってすらいないのかもしれない。
実に重畳である。
不意に視界の端を最近良く見る赤毛が過り、何気なくそちらに視線を向ける。
船から降り立ったボルトは、心なしか飛び跳ねるようにして歩いており、癖の強い赤髪がふわふわと揺れていた。
昨日部屋に来た時に、港に着いたら思う存分女の子と遊ぶのだと豪語していたから、これから娼館へとしけ込むのだろう。
呆れたように苦笑を漏らした葵であったが、直後、彼が走り寄った人物に息を呑んで身を凍らせた。
ボルトが呼びかけたのか、その人物が振り返り、夕日に反射した金色の髪が煌めいている。
ぞわりと肌が粟立ち、葵は咄嗟に己の二の腕を掴む。
あれからそれなりの時間が経ったというのに、未だにあの夜の生々しい記憶は葵の中で燻り続けている。
自分を穿った熱も、肌の上を這い回る指先も、キラキラと輝く金糸も、そして月の下で獣のように光る瑠璃色の瞳も。
何もかもが鮮明で、未だ消えることなく葵を苛んだ。
消えろ、消えろ、忘れてしまえ。
そうして、二度と私の心を掻き乱さないで。
僅かな眩暈と吐き気を覚え、葵は眉を顰めて唇を噛み締める。
茫洋とした瞳で窓の外を見下ろしながら、鳥肌の治まらぬ己の腕に爪を立てた。
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時は遡って数日前、葵と件の取り決めをして彼の部屋を退室してから、ローはそのまま船長室に足を運んでいた。
軽くドアをノックして中に入ると、アレクシスは一瞬彼に目を向け、すぐに手元の書類に視線を落とす。
この船は所謂海賊船だが、時折金品と引換に商船の護衛や商品の運搬を請け負っているため、それなりに事務仕事も多い。
荒くれ者の集団故に、読み書きができない者もいて、自然とそういった仕事は一部の人間が務めることとなる。
その最たる者がローなのだが、幼い頃から船に乗っているという割に、アレクシスも読み書きができた。
ただし、“できる”と“やる”は別物で、概ねの書類はローに押し付けている。
もっとも、どうしても船長の印が必要なものもあり、時にはこうして嫌々ながらも書類と向き合う破目になるのだ。
当然のことながら機嫌は斜め向きで、傍から見ても苛立っているのが分かる。
間が悪かったかなと思いながらも、ローは僅かに肩を竦めて歩みを進めた。
彼はアレクシスが座る仕事机の前まで近づくと、その上に懐から取り出したものを置く。
「……何だ、これは」
目の前に置かれた小瓶に、アレクシスは眉間に皺を寄せ、胡乱げにローを見上げた。
剣呑な視線を向けられたローは、涼しい顔をして肩を竦めてしれっと言い放つ。
「オイルです」
彼の言葉にひくりと口元を引き攣らせてから、アレクシスは手にしていた書類を机に放った。
「そんなことは分かってんだよ。どう言うつもりでこれを出したのかって聞いてんだ、俺は」
神経質にコツコツと指先で机を叩き、彼はじろりとローを睨み上げる。
随分と剣呑な目つきであるが、ローは気にした様子もなく笑顔で答えた。
「いえね。そう言えばあなた、男性同士の性交渉は経験がないだろうなぁと思い出しまして」
「はぁ?」
ローの言葉に、アレクシスは片方の眉を跳ね上げて不可解な物を見るような視線を送る。
並みの人間なら縮み上がってしまうような眼光だが、生憎と自分はそんな繊細な精神は持ち合わせていない。
伊達に、日々傷だらけの荒くれ者と遣り合っているわけではないのだ。
そうして、一応人の健康を預かる身であるからには、伝えるべきことは伝えねばならない。
「男の体は、女性と違って受け入れるようにはできていないのです。ですから、きちんと処置をしないと、酷いことになる」
「そーかよ」
興味が失せたかのように肩を竦めて、アレクシスは椅子の背もたれに凭れかかった。
放っていた書類を手に取り、煩わしげに目を眇めながら書きつらねられた文字を追う。
ただ、話を聞く気はあるようで、書類から視線を上げぬままローに先を促した。
「で、どうしてこれを俺に渡す」
「いえ、必要かと思いまして」
「何でだよ」
何食わぬ顔で言い放ったローに、逆に呆れた様子でアレクシスが息を吐いた。
読み終わった書類に判を押して、アレクシスは机の片方に積まれた山にそれを投げる。
「お前、俺が男のケツに興味ねぇの知ってんだろ。大体、もうすぐアムセンだろうが。そこで娼館にでも行きゃあ事足りる」
そう言いながら、まだ未処理である束に腕を伸ばし、新しい書類を手に取った。
退屈そうに紙面を眺めていたアレクシスは、未だ机の前に立ったままのローを訝しげに見やる。
「何だよ」
「いいえ、何でもありません」
ふっと息を吐き出して、ローは処理済みの書類の束を手に取る。
面倒臭がっているわりに、意外と生真面目なところがあるアレクシスのことだから、簡単な修正と最終確認をすれば各方面に提出することができるだろう。
やればできるのだから、ここまで溜めずに日々コツコツとこなせば済むものを、なかなかそうしないのが彼の悪い癖である。
「では、こちらの書類は頂いていきます。オイルの方は、まぁ、用途は多々ありますし、どうぞお好きなように使ってください」
受け取った書類に軽く目を通していたローであったが、そう言えばと呟きながら視線をアレクシスへ移す。
彼の方はもはや相手にする気も失せたようで、返事を返すことなく書類を睨み付けている。
「件の奴隷のことですが……」
その何気ないローの言葉に、それまで億劫そうに書類を捲っていたアレクシスの指が一瞬動きを止めた。
そんな彼の様子を視界の端に捉えながら、ローは素知らぬふりをして問いかける。
「部屋を与えてみたり、その癖、随分と用心深く拘束しているようですが、何をお考えですか?」
ゆっくりと上げられた瑠璃色の瞳は、表面的には実に平静なものだった。
しかし、その奥に何やら燻るものを認め、ローは軽い驚きと共に片眉を跳ね上げた。
「あれは、俺の船の戦利品だ。それをどうしようと、俺の勝手だろうが」
「えぇ、その通りですとも。船長」
低まったアレクシスの声に、室内がどことなくひんやりとした空気になる。
暫く時が止まったかのように無言で向き合っていた彼らだったが、小さく足音が聞こえてきたことで互いに視線が外れた。
この時間に船長室へ来るとすれば、恐らくボルトあたりだろう。
それに、足音だけだというのに、パタパタと跳ねるような音を立てていて実に分かりやすい。
相変わらずの騒がしさに肩を竦めてから、ローはちらりとアレクシスに視線を戻す。
「では、そろそろお暇することにします。そちらの書類はアムセンに着く前に処理しておいてくださいね」
「……」
先ほどまでの緊張感が嘘であったかのように、手にした書類をひらひらと振ってみせながら、彼は今度こそ船長室を退出するために踵を返す。
書類整理に期限を設けられたアレクシスは、苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちをした。
そうして、ドアまで辿り着いたローは、ノブに手をかけたところで、ふと思い出したように後ろを振り返った。
「あぁ、ところで……」
「まだ何かあるのかよ」
「その“戦利品”に、夜の民について話を聞く許可を頂きたいのですが、宜しいでしょうか」
心底鬱陶しそうに表情を歪めたアレクシスに、ローは笑みを浮かべながら小首を傾げる。
深々と息を吐き出した彼は、さっさと出ていけとでもいうように手を振った。
「……好きにしろ」
めでたく船長から許可を頂き、ローは上機嫌でドアを開ける。
アレクシスの方はと言えば、投げやりな態度で机に片肘を付いて顎を乗せていた。
そんな彼に楽しげに礼を述べると、ローは船長室を出て行った。