自室に戻ったルースは、一日の中で最も至福の時を過ごしていた。
城での生活で良かったと言えるのは、中庭で珍しい植物を観察できること、豊富な蔵書を誇る図書館を利用できること、そして広い浴槽でたっぷりとした湯に浸かれるという3点に限るだろう。
そのなかでも、手足を思い切り伸ばすことのできる湯殿は、ルースの一番のお気に入りだった。
さらには、入浴の間は常に纏わりつく視線から逃れられることも、気分の向上に一役買っていた。
思わず自分の顔に笑みが浮かぶのを自覚しながら、ルースは大きく深呼吸をする。
体の力を抜いて、肩まで湯に沈める心地よさは、何度味わっても飽きることはない。
湯中りさえ考えなければ、いつまでだって浸かっていたいと思ってしまう。
浴槽の淵に両腕を乗せ、そこを枕にして顎をつける。
美しい光沢のある岩石で作られた浴槽は、ひんやりとしていて火照った肌に気持ちが良い。
自分の動きに合わせてお湯が立てる音を聞きながら、ルースはゆるゆると目を閉じた。
(あー、いっそのこと、このまま眠れたら幸せなのに)
馬鹿げたことを考えて、一人クスクスと機嫌よく笑う。
どうやら少しのぼせているらしく、思考回路がおかしくなっているようだ。
そろそろいい所で切り上げないと、本当に倒れてしまいそうだ。
残念に思いながらも、ルースは浴槽からゆっくりと立ち上がった。
脱衣所に出て、準備されていたタオルで体を拭き、新しい服を身に着ける。
ローブも真新しいものが用意されていたが、こちらは着なれた己のローブを選んだ。
銀の仮面をつけ、鏡を見つめたルースは、眉を顰めて息を吐く。
浴室からでれば、再び窮屈な思いをするかと思うと気が重い。
大量に水分を含んだ髪を苦心して拭いながら、ルースは居室へ繋がるドアを開けた。
浴室から出た途端、室内に走る妙な空気にルースは眉根を寄せる。
緊張や混乱など、様々な気配が入り乱れているような、そんな雰囲気だ。
戸惑いがちに、扉の外からかけられた来客の知らせに、ルースは不信を顕にする。
こんな時間に客とは、一体何の用だというのだろう。
嫌な予感がして、できることならお断りしたいのだが、あいにくそのような身分でも立場でもない。
タオルをテーブルの上に投げ、ルースはローブのフードを深く被り、客を通すように伝えた。
扉を開ける兵士を押しのけるようにして、入ってきたのは王だった。
いくら王と言えども、人を訪ねる際の常識がある。
仕事が忙しく、遅い時間の訪問になるというなら、先触れの一つでもよこすのが礼儀だろう。
一度だけならまだしも、王が突然夜に来訪するのは今回で二度目だ。
文句を言おうと口を開いたルースだったが、王の視線に捕らわれ固まった。
金糸の合間から覗く翠の瞳が、じっとルースを見つめている。
王の後ろにいた数人の供も、どこか困惑した様子で王とルースを交互に見やった。
獲物に狙いをつけた獣のような視線に、ルースは一歩後ずさる。
風呂を出たばかりだというのに、嫌な汗が背筋を流れた。
無言のままに王が一歩踏み出し、同じ距離だけルースが下がる。
王から視線を逸らさないまま、じりじりと後退していたルースは、背に当たる壁の感覚に思わず舌打ちをした。
いつの間にか、壁際まで追い詰められていたらしい。
そこに気を取られた隙に、王は間合いをつめルースの仮面を取り上げた。
王が手にしたそれを放り投げ、宙を舞った仮面は絨毯の上に音もなく落ちて長い毛に埋もれる。
急に広がった視界に、ルースは一瞬目を見開くが、顔を隠すために慌てて腕を上げた。
だが、王に両腕を掴まれ、それすらも適わない。
悪あがきであると理解しながら、顔を横に背ける。
王の手がローブのフードを後ろに落とすと、長く艶やかな黒髪が散った。
顕になった薬師の姿に、王の後ろに控えていた、蒼銀の髪を持つ青年が息を呑んだ。
なぜなら、彼はその人物によく似た人を知っていたからだ。
本来であれば、ここには居るはずのない人物。
もう二度と、会うことはないだろうと思っていた。
「ユーリ殿……」
唖然としたカーデュレンの声が、客室の中に響いた。
*************
誰一人言葉を発しないまま、静寂が室内を支配している。
誰かが息を飲み込む音が響き、我に返ったのはカーデュレンだった。
彼は目の前の人物を、信じられない思いで見つめながら問うた。
「ユーリ殿、ユーリ殿ですよね? あの嵐の日に行方知れずとなった後、一体どうされていたのです?」
「人違いなんじゃない? 悪いけど、僕の名前はルースだ」
不機嫌なことが分かる低めの声で、王に腕を捕らわれたままの薬師が呟く。
声をかけてはみたが、カーデュレン自身も確証は持てずにいた。
自分をルースと称する薬師は、確かにユーリと瓜二つだ。
だが、あまりにも、その声色や態度、なによりも雰囲気が違いすぎる。
困惑していたカーデュレンだったが、王は薬師から目を逸らさず、逆に薬師の腕を握る己の手に力をいれた。
「私が、お前の魔力を間違えるとでも思っているのか?」
「末裔の魔力なんて、どれも似通ったものだろ」
それぞれに個性的な特徴のある属性付きの魔力と違い、魔女の末裔の力は殆ど無個性であると言って良かった。
精々力を発動する時に、術者の癖が現れるくらいだ。
王の中に流した粕のような魔力で、個人を特定できるとは考えがたい。
「確かに私だけなら、動揺のあまり間違ったということもあるかもしれない」
日が落ち始め肌寒さを感じ始めたころ、昼寝から覚めたラズフィスは、己の身が妙に軽いことに違和感を覚えた。
影のように付き従っていた近衛に、何かあったかと問うと、例の仮面の薬師について教えられた。
だが、薬師は暫らく側にいて様子を窺った後、何もせずにその場を後にしたという。
訝しみながらも己の内を探ったラズフィスは、その魔力を感じた瞬間に思わず声をあげた。
王の様子に尋常ならざるものを感じたのか、近衛は顔を顰め何事かと問うてくる。
その声を無視し、再度ラズフィスは探索の術を構成した。
己の心臓が早鐘を打つ音を聞きながら、慎重に身の内を探る。
そこに、焦がれるほど捜し求めた魔力の名残を認め、叫びだしたくなるほど狂喜した。
今すぐにでも客室へ駆け出したかったが、ラズフィスは一度高ぶる感情を抑え付けた。
自分がこの魔力を間違うはずはないが、もしもということもある。
ラズフィスは全てを見ていただろう己の精霊に、仮面の薬師が彼女であるかを確認した。
その答えに、自分がどれだけ感情を乱したか、目の前の彼女には分かるまい。
「だから、念のために確認もしたのだ。これは、間違いないと答えたぞ」
「これ?」
ラズフィスの言葉に、薬師は胡乱げに眉根を寄せる。
気配を感じたのか、彼の足元に視線をやり、驚きに目を丸くした。
いつの間に現れたのか、この場の空気にそぐわないほど幼い少女が、ラズフィスの足元から薬師を見上げていた。
青緑の髪に、ラズフィスと同じ翠の瞳をした少女は、薬師と目が合うと嬉しそうに破顔した。
覚束ない足取りで進み出ると、スカートの端をつまんで礼をする。
「この姿では初めまして、ユーリ様。リリアージュと申します」
穢れなき瞳でキラキラと見つめられ、薬師は口元を引き攣らせた。
頬を紅潮させる少女から視線を剥がし、思わず助けを求めるような態でラズフィスを見る。
「これはお前からもらった守り石と、私の魔力から生まれた精霊だ。お前のことも覚えさせてある」
「……信じられない。精霊生み出すとか、どこまで規格外なんですか、あなた」
細められた翠の瞳に、大きな溜め息をつきながら薬師はがっくりと肩を落とす。
王は既に確信を持っているのか、何を言っても認識が揺らぐことはなさそうだ。
思わずこぼれた声は、落ち着いた女性のもの。
確かに、ラズフィスの耳を飾る守り石は、かつて自分が贈った物だった。
売られていた時点ではまだ完成しておらず、未知の可能性を秘めている気がした。
だからこそ、魔力が目覚めたばかりの若き王子に相応しいと思ったのだ。
まさか、だからといってこんな副産物が生まれるとは想像もしていなかった。
「……ユーリ」
本当ならば、ここで返事をすべきではないのだ。
自分のような人間と、国の頂点に座す人間が関わって碌なことにならない。
知らないふりを突き通すことが、己にとっても、彼にとっても一番良いはずなのだ。
だが、深い新緑の色が自分を捕らえる。
あの頃とは違う、低く落ち着いた声に呼ばれ、薬師は観念した。
気持ちを切り替えるように息を吐き、真っ直ぐにラズフィスを見上げる。
「ラズフィス殿下。……いえ、今は陛下とお呼びしなければなりませんね。改めて、お久しゅうございます。お元気そうで、安堵しておりました」
ユーリが深々と頭を下げた直後、荒々しい力で腕を引かれる。
驚く間もなく、彼女の体はラズフィスの胸に飛び込んだ。
そのまま背に彼の腕がまわり、力強く抱きとめられる。
ラズフィスはユーリの体を抱きこみ、彼女の肩に顔を埋めた。
予想だにしていなかったラズフィスの行為に、ユーリは暫らく唖然としていた。
だが、彼の肩越しにカーデュレンと目が合い、途端に顔を引き攣らせる。
さらに、斜め下からは、少女が翠の瞳でじっと自分達を見上げていた。
ユーリはラズフィスの腕から抜け出そうと、彼の胸に手をつき身を捩じらせる。
しかし、拘束する力はますます強まり、いよいよ動くことさえままならなくなった。
全てを諦めたユーリは、半目で天を仰ぎ見た。
「ユーリ」
「……なんでございましょう」
ラズフィスの好きにさせていたユーリは、名を呼ばれて自分の肩口に視線をやる。
視界一杯に広がる金色に、思わず目を細めた。
ユーリを囲うラズフィスの手が、そっと彼女の背を撫でる。
「もう、お前には会えないのだと思っていた」
「……陛下」
「どうか、二度と消えてしまわないでくれ、ユーリ。私の側に居てくれ」
耳元で囁かれた言葉に、ユーリは目を見開く。
20年前、大樹の下で同じようなことを言われたのを思い出した。
あの時とは異なって、ラズフィスは嗚咽を漏らすことなく、彼の方が自分を抱きしめているけれど。
それでも、縋り付かれている気がするのは変わらない。
体を起こして見れば、あの時のような、不安に揺れる新緑が自分を見つめるのだろうか。
ユーリはラズフィスの背に手を回し、静かに瞳を閉じた。