己の主を追いかけ、リリアージュは長い廊下をパタパタと走っていた。
先に部屋を出て行った彼らの姿は、もう随分と遠くにある。
飛んで行った方が速いだろうかと考えていると、頭の中で主の声が響いた。
『リリアージュ』
「はい、主様」
精霊の加護を得て魔術を使う魔導師は、彼らと意思の疎通をすることができる。
ラズフィスのような高位の魔導師ともなれば、それなりに正確なやり取りをすることも可能だ。
『長く人型を取って疲れただろう、もう戻れ』
「はい!」
元気良く返事をしたリリアージュは、急停止すると自分を形作っていた魔力を解く。
次の瞬間、少女の姿は空気に溶けた。
空中を漂いながら、本来の自分である守り石の気配を感じ、引かれるままにその中に飛び込む。
心地良い魔力で満たされている石の中で、彼女は思い切り腕を伸ばし、体の緊張を解した。
自分達のような精霊は、本来形を成さない。
他の種族と交信しやすくするため、たまに仮の姿をを取ることがあるくらいだ。
それは重たい被り物をしているようで、精霊として生まれて間もないリリアージュにとってはなかなかの重労働だった。
だが、彼女は満足げに息を吐く。
疲れはしたが、代わりにユーリと触れ合うことができた。
精霊とは、本来ならば自然の力や、魔力の霞が集まっていつの間にか生まれている存在だ。
だからこそ、彼らは気まぐれで、自由なのだ。
気に入った人間に力を貸しても、かなり相性が良くなければ契約を結ぶことはまずないと言える。
だが、リリアージュは自然の力だけではなく、ラズフィスの想いと魔力も彼女を構成する一部だ。
その点で、彼女は精霊ではあるが、ラズフィス以外と交信することはない、言わば彼専属の精霊だった。
人と精霊の交信は精神が同調することによって意志を伝えるものだが、その特性からはっきりと伝わらないことも多く曖昧な部分がある。
しかし、リリアージュとラズフィスは違う。
殆ど会話と言って差し支えのない意志の疎通を成り立たせる事が可能だった。
それは、彼女がラズフィスの精霊であり、彼と完璧に同調している故のことだ。
つまり、ラズフィスの感情が、自然とリリアージュにも伝わってくる。
彼が悲しいと感じれば、リリアージュも悲しみ、嬉しいと思えば、自分の気分も高揚した。
だから、彼女はユーリが魔女の末裔であっても、大好きでとても大切なのだ。
先ほど再会した後も、ユーリがちゃんとここに居るという事を実感したくて、とにかく彼女に触れていたかった。
それをリリアージュが実行したことで、ラズフィスの心情が現されてしまい、カーデュレンに笑われる結果となったのだ。
リリアージュとしては、ユーリの膝に座れて満足だったが、半目で睨まれつつ、主に窘められてしまった。
だが、ユーリの膝から下りることはせず、リリアージュは主達が話している間、ユーリの魔力を感じていた。
普通の精霊ならば忌避する、不気味な魔力。
この世界に存在するはずのない異端の力だが、リリアージュはそれが時にとても暖かい事を知っているのだ。
彼女がラズフィスの精霊だからそう感じていると言うだけではない。
ユーリが暖かい人であることは、リリアージュが精霊として成熟する、もっと前から知っていたことだった。
(本当はね、ユーリ様。リリアはほんのちょっとだけ、ユーリ様でもあるんですよ)
内緒の出来事を思い出し、リリアージュはくすくすと小さく笑い声をあげた。
*************
リリアージュが思い描くのは20年前のあの日、自分がユーリに買われた日のことだ。
あの時、リリアージュはまだ確固とした存在は無く、うっすらと意識がある程度の存在だった。
だが、そんなぼんやりとした意識下ではあったが、兄弟石と離れ離れとなったことは分かった。
一人見知らぬ国に怯えていた時、すぐ側に得体の知れない気配を感じ、リリアージュは慄いた。
この世界とは相容れぬその魔力に、彼女は精神を閉ざし、その存在が遠ざかるのを震えながら祈っていた。
しかし、その祈りも虚しく、不気味な人間はリリアージュを気に入ってしまったようだった。
彼女は自分がその人間に売り渡されたことを知って絶望した。
全ての感覚を遮断し、奥へと引きこもっていたリリアージュだったが、不意にその存在が静かに語りかけてきたのだ。
初めこそ無視していたものの、あまりに真剣な様子にリリアージュは少しだけ興味を持った。
散々迷った挙げ句、ほんの少しだけ外の世界へ感覚を繋げる。
その瞬間に流れ込んできたのは、純粋に誰かを案じる想い。
少しでも、リリアージュがその誰かの苦痛を軽くしてくれれば良いという祈りだった。
リリアージュは、自分という存在を認識してから、これほど胸に響く祈りを感じたことはなかった。
外にいる人間は、とても恐ろしい気配なのに、想いはこの上なく暖かいものだった。
(とても怖いけど、この暖かい想いは好き)
リリアージュは目を瞑って、石の中に流れてくる思念を感じていた。
そんなに願うなら、少しだけ、その誰かを守ってあげても良いよと笑う。
思えば、あれがリリアージュの守り石としての目覚めだった。
そして、その不気味な人間が案じていた、自分の主となる者が金であったことで更に驚いた。
どの精霊にも、心地良いと感じる魔力を持つ金の人間を、精霊達は殊の外好む。
ラズフィスは近年稀に見る魔力量を誇るようで、力を使用していない状態であっても、少量の魔力がにじみ出ており、あの不気味な人間が心配するのも頷けた。
少年が自分を身に付けた瞬間、流れ込んできた魔力に酔うのと同時に、彼の思いが伝わってきてリリアージュは驚愕する。
金の少年は、自分と真逆であるはずの不気味な人物を、心の底から慕っていたのだ。
リリアージュを少年に贈ったその人物は、明日にはこの大きな城と呼ばれる箱から出て行かなければならないらしい。
そのことに対する切なさと、そんな中で再会の約束ができた喜び。
彼の思念が、リリアージュの心まで真っ直ぐに伝わってきた。
だからこそ、あの人が消えてしまった時の主の荒れようは凄まじかった。
リリアージュに流れてくる思念は、絶望、喪失感、無力感など胸が苦しくなるものばかり。
そして、感情の高ぶりに刺激され、制御しきれない魔力がそこかしこで爆ぜる。
そのために、他の人間や精霊も彼に近づくことができない。
リリアージュはラズフィスの思いに引きずられながらも、必死に彼の精神と魔力に働きかけた。
(主様、駄目だよ。それ以上したら、あの人が悲しむよ)
どれくらいそうして声を上げていたのかは分からないが、力に目覚めたばかりだったらしい主は、とうとう疲れ果てて意識を失った。
外で様子を伺っていたたくさんの人間が、荒れ果てた主の室内を片付けていくのを見つめながら、リリアージュは胸を撫で下ろした。
今回はこの程度ですんだものの、これから自分が主の守り石としてやっていけるのかと不安になりもした。
だが、リリアージュはこの役目を他の石に譲るつもりはなかった。
何故なら、自分があの人と約束をしたからだ。
リリアージュの声は、きっと異質であるあの人には届いていなかっただろうけれど。
(……ユーリ様)
失ってしまったあの暖かい人を思い、彼女は初めて哀しいと言う感情を知った。
あれから主はがむしゃらに魔術の訓練に力を入れた。
特に、探索魔術は王城の魔導師すら舌を巻くほどに卓越した。
そして、彼の成長と共に、リリアージュ自身にも変化があった。
主とより明確な意志の疎通ができるようになったのだ。
更に、自分でも驚くことに、リリアージュはラズフィスの魔力を近くで浴び続けたために、ただの守り石から精霊として生まれ変わる事になった。
数々の出来事があったその間にも、ユーリの探索は続けられた。
主の感情に引きずられただけでなく、リリアージュは自らユーリの探索に力を貸した。
自分自身が、もう一度あの暖かい人に会いたかったからだ。
だが、主が他の追従を許さないほどの魔導師となっても、自分が具現化できるほどの精霊となっても、ユーリの行方は一向に分からなかった。
元々、魔女の末裔の魔力は小さく、市井に紛れてしまえば他の気配と混ざり合ってしまい、それを元に個人を特定するのは難しい。
今考えれば、彼女は姿くらましの術も使用していたのかもしれない。
ユーリが目の前に居ながら、自分も主も彼女が魔術を使うまで全く正体に気付かなかったくらいだ。
何より、ユーリは世界と深く関わるのを忌避していた。
実際にユーリの口から聞いたわけではないが、リリアージュに一番初めに語りかけてきた時にそのような思念が流れ込んできた。
ラズフィスを案じながらも、彼がこの世界に深く関わってくる人間であるが故に側には居られないと、いてはいけないのだと。
だから、代わりに彼を守って欲しいと、ユーリは守り石である自分に願っていた。
どのような理由があるか知らないが、それは確固たる意志だった。
ユーリの消息が知れないまま、決して短くない時が流れた。
そんな中、とうとう彼女が現れた。
あの時のことを思い出すだけで、リリアージュは叫びだしそうになる。
ユーリが主に魔術を流した時、自分は歓喜に震えた。
(ユーリ様だ!)
思わずこぼれた思念は、彼女に伝わったのか、去り際にユーリが不意にこちらを振り返った。
(あぁ、間違いない。主様、早く、早く起きて!)
余りに興奮しすぎたために、起き抜けのラズフィスに上手く伝えることができなかったが、主は己で気付いたらしかった。
狂おしい程の喜びを抑えて自分に問う主に、リリアージュは必死に肯定の意を返す。
(そうです、ユーリ様ですよ! やっと、やっと見つけたんです!)
リリアージュの答えを聞くなり踵を返した主に、自身も逸る気持ちを抑えながら、彼女はユーリの事を思い描く。
自我を持ってすぐ、ユーリの感情に触れた自分は、ごく僅かだが彼女からも影響を受けている。
だから、彼女の思いも少しだけ知っていた。
ユーリは恐れていると言っても良いほど、世界に関わる事を嫌がっていた。
その彼女にとって、この再会は喜ばしいだけではないのかもしれない。
(でも、ユーリ様。リリアも、主様も、ユーリ様に側に居て欲しいんです)
リリアージュはユーリとの再会を思い、祈るように静かに目を閉じた。
*************
先ほどまでの、目まぐるしい出来事を思い出していたリリアージュは、眉を寄せ主に呼びかける。
主はいつの間にか自室に戻り、書き物をしているようだった。
(ねぇ、主様)
『何だ?』
(リリアは兄弟も、ユーリ様もいて嬉しいけど、ユーリ様は嫌がるよね?)
『……』
自分に探索魔法が掛けられている状態だと知って、平気でいる人間はまずいない。
そもそも、それではまるで罪人のような扱いだ。
ラズフィスも少しやりすぎたと感じているのか、黙り込んでしまい、流れてくるのは気まずい思念。
暫らく考え込むように黙っていた主は、やがて溜め息をついた。
『ユーリが夢ではなく、ちゃんと戻ってきたのだと実感できれば外す』
今まで、主は何度もユーリが見つかる夢をみて、起きるたびに絶望した。
あまりの急展開に、彼の心情がついて来ていないのだ。
明日、目を覚ますと、同じように彼女のいない現実が始まるのかもしれない。
そう思うと、何もしないではいられなかったのだ。
主が手を止め、立ち上がる気配がする。
リリアージュが石の外へと感覚をつなげると、夜空に浮かぶ月が目に飛び込んできた。
今は意識して感情の流れを遮断しているのか、主が何を考えているのか、リリアージュには分からない。
(安心して、主様。精霊は夢を見ないもの。ちゃんと、ユーリ様はここにいるよ)
己の心の内だけで呟き、リリアージュは目を細めて夜の色を見つめていた。