「あの嵐の日、土砂崩れに巻き込まれそうになった幼子を助ける時にも、私 はこの魔術を利用いたしました」
土砂崩れの勢いは凄まじく、普通に駆け寄ったのでは到底間に合わずに幼子諸共巻き込まれてしまう。
そう判断したユーリは、瞬時に術を構成させると地を蹴り駆け出した。
幼子を助けた所までは良かったのだが、その後のことが問題だった。
「ただ、焦っていたものですから、構成が中途半端になっておりまして、途中で術が弾けてしまったのです」
自分の真上が翳り、すぐ近くまで土砂が迫っていることに気付いたユーリは、後ろに飛びのいて距離を取ろうとした。
だが、そこで元々甘かった構成が緩み、足に集中させていた魔力が一気に弾けたのだ。
集中させていた分、暴発した魔力は想像以上で、ユーリの体はその場から吹き飛ばされた。
「それで、うっかり崖下の川も越えてしまいまして、ようやくあの場所から少し離れた森の中に落下したんです」
土砂崩れには巻き込まれなかったものの、その勢いのままユーリは鬱蒼とした森に突っ込んだ。
急な出来事に体勢を整える間もなく、思い切り地面に叩きつけられる。
衝撃で一瞬息が止まり、感覚が戻ると供に襲ってきたのは、全身を貫く激痛だった。
腕も、足も、動かすことすらできず、そのまま意識を失った。
「骨を2、3本折ったようですが、近くを通りかかった木こりに助けられたのです。そのまま、彼とその妻にご厄介になりまして、何とか生き延びたというのが事の顛末でございます」
次に目を覚ましたときには小さな小屋の中で、恰幅の良い女性に覗き込まれていた。
話を聞くと、どうやら3日ほど目を覚まさなかったらしい。
心の底から安堵したような顔で笑い、木こりの妻は暖かいスープを手ずから食べさせてくれた。
全身包帯だらけで、顔すらまともに動かすことがままならないユーリを、夫婦は嫌な顔をせず小屋に置いてくれた。
ベッドを占領し、食事の世話までしてもらうことが心苦しく、ユーリは魔術も使って治療に専念した。
色持ちの魔導師であるなら一瞬で治せる傷も、魔力の少ない自分は精々治癒を早めることしかできない。
数ヶ月の後、ようやく完治したユーリは、せめてもの礼に夫婦の仕事を手伝った。
一年間をそうして過ごし、ようやく自分の森に帰ったのは、あの嵐の日から1年後のことだった。
「別段、面白くもない話でしたでしょう?」
苦笑しながら肩を竦めて見せると、何故かラズフィスは顔を顰めた。
おや、と不思議に思いながら、ユーリは首を傾げる。
何か彼の気に障るような事を言っただろうか。
「骨を折るほどの怪我だったのだろう、後遺症は?」
渋い顔のまま、ラズフィスが問うてくる。
カーデュレンも、どこか気遣わしげな顔をしていた。
「御覧の通りでございます。痛みも、今はありませんよ」
「未だ信じられない心持ちですが、ご無事でなによりでした」
「お手数をおかけしたようで、すみません」
個人としては大事件であっただろう事をけろりと話すユーリに、カーデュレンは苦笑を漏らした。
そして、当時の自分の甘さに反省する。
まさか川の向こうまで弾き飛ばされているとは夢にも思わず、その先の森はそこまで真剣に捜索していなかった。
ユーリがここまで魔術を使いこなしている事実を知らなかったとは言え、彼女が術を使用できることは知っていたのだから、一つの可能性として考えておかなければならなかったのだ。
そうすれば、自分の主をあそこまで悲しませることはなかっただろうに。
「ですが、まさか私 のことを覚えておいでとは思いもしませんでした」
あれから数年であるならまだしも、すでに20年の月日が巡っていた。
ラズフィスは王となり、周りの状況も目まぐるしく変化しただろう。
その激動の中で、ほんの数ヶ月を供にしただけの女のことなど、忘れてしまっているとばかり思っていた。
そして、できることならそうであって欲しかった。
僅かに俯いたユーリは、膝の上で大人しくしていた精霊と目が合った。
彼女は心配そうな表情で、ユーリを見上げている。
精霊は人の感情に敏感だと聞くが、生まれたばかりの存在であってもそうなのだろう。
彼女を安心させるためにも、ユーリはそっと精霊の頭を撫でた。
「お前を、忘れられるわけがない」
目を伏せていたユーリは、思いの外近くから聞こえた声に顔を上げる。
いつの間に席を立ったのか、目の前に立ったラズフィスが自分を見下ろしていた。
「お前は、あの苦悩から私を救ってくれた。どうして忘れられる」
「……陛下」
視線を合わせたまま、お互いに口を開かない。
注がれる眼差しに、ユーリは息を呑む。
無意識の内に、精霊を抱えていた腕に力が込められる。
静寂の中、先に視線を逸らしたのはユーリだった。
「夜も更けて参りましたし、そろそろ終いにいたしませんか。陛下も、カーデュレン殿も、明日はお早いのでございましょう」
笑みを浮かべるユーリに、ラズフィスは物言いたげな視線を送っていたが、溜め息をついて踵を返した。
カーデュレンは王よりも先に扉まで移動しており、入り口を開けるよう外に控えていた兵に声をかけている。
膝上にいた精霊は、ラズフィスとユーリを交互に見ると、彼女の膝の上から飛び降りた。
胸を撫で下ろし、ユーリは彼らを見送るために立ち上がって、その後ろを着いて行く。
開け放たれた扉の両脇には、見張りの兵や侍従達が深く頭を下げていた。
それを何となく眺めていたユーリだったが、ラズフィスが扉の前で立ち止まったことで視線を彼に向ける。
ラズフィスは振り返り、ユーリの方へと戻ってきた。
「お忘れ物ですか?」
忘れ物でもあっただろうかと、ユーリは室内を見渡す。
だが、彼がこの部屋に来て何かを置いたり、外したりした記憶はない。
小首を傾げていたが、ラズフィスに呼ばれて振り向く。
「ユーリ」
「はい」
「手を」
差し出されたのは、ラズフィスの右手だった。
自分の右手を見つめ、次いで彼の顔を確認すると、ラズフィスは肯定するように頷いた。
王に自分から触れるだなんて、不敬に値するのではないかと悩むが、王の言葉を無視するのも同罪だろう。
大いに悩んだ挙句、ユーリは恐る恐る自分の右手を差し出した。
「……え?」
ラズフィスの右手が淡く発光し、気付いた時には己の腕に見慣れぬ装飾具が嵌っていた。
金を伸ばして輪にしたのだろう土台には、長く尾を引く鳥が羽ばたいている。
その嘴に挟まれているのは、美しい翠の石だった。
ユーリは目を丸くしたが、慌ててそれを外そうと試みる。
だが、どう考えても手首にぴったりと収まった腕輪は、引っかかってしまって腕から抜くことができない。
ならば、繋ぎ目があるのかと全体を調べるが、あいにく外せるような部分は見当たらなかった。
「ちょ、何ですか、これ。取れない!」
思わず、王の御前という現在の状況を忘れ、ユーリは声を上げる。
焦るユーリとは裏腹に、腕輪を見た精霊は嬉しそうに手を叩いた。
「あー! それ、リリアの兄弟石です!」
「は?」
精霊の言葉に、ユーリは顔を青くする。
兄弟石とは、同じ大地で、同じ魔力に晒されて育った守り石の名称だ。
そして確か、兄弟石は石同士で共鳴し、その魔力を増強させる。
「リリア達は、皆繋がってるんです。兄弟のいる場所はすぐに分かるんですよ!」
「えっと、待ってください。と言うことはですよ、私の動向全部筒抜けってことになりませんか?」
「ユーリ様が居なくなっても、今度はちゃんと分かりますね」
無邪気に告げられた事実に、ユーリは引き攣った笑みを浮かべる。
勢い良くラズフィスへと顔を向けると、彼は平然とした顔で自分を見下ろしていた。
「安心しろ、探知の魔術をかけられている程度のものだ」
「安心できませんよ! それって、常に監視されてるってことじゃないですか。外してください!」
「今日はもう遅い。時間ができれば明日来よう」
「ちょっと、本気でこのまま帰るんですか!」
去って行く背中に、彼が王であることにも構わず声を上げる。
唖然としていたユーリだったが、扉の横で一部始終を見ていたカーデュレンに縋る様な目を向けた。
「カーデュレン殿」
「陛下は、あなたに会えたことで気分が高揚しているのでしょう。落ち着けば正気に戻りますよ」
「だからと言って、やって良い事と悪い事があります!」
確かにその通りなのだが、カーデュレンは薬師の正体が分かってからのラズフィスを思い出す。
数刻前、己の執務室に部下が駆け込んできたときには驚いた。
何でも、周囲が止めるのも聞かず、いつもとは異なる剣幕で王が客室へ向かっているというのだ。
薬師のことは報告書で知っていたが、曖昧な部分が多く怪しい人物であるのに変わりはない。
それを知りながら、突然客室を訪れようとするなど、普段のラズフィスからは考えられなかった。
部下について客室に辿りついた時には、ラズフィスは見張りの兵を押しのけて室内へ踏む込む所だった。
あのように感情のままに行動する彼を見たのは、久しぶりのことだ。
ユーリには可哀想だが、暫らく付き合ってもらう他はないだろう。
「今の陛下は、私にも止められそうにありません。ユーリ殿、広いお心で許してやって下さい」
苦笑しつつも助けを拒否され、ユーリは愕然とする。
カーデュレンは暇を告げると、ラズフィスの後を追って部屋を出て行った。
「……冗談ですよね?」
へたり込み、思わず呟いたユーリのローブを精霊が引っ張る。
内緒話をするように、小さな手を口元に当て、ユーリの耳に近づけた。
「あのね、ユーリ様。リリアは主様と同じなの! だから、リリアはユーリ様のことが大好きで、とっても大切なの!」
そこまで小声で囁いていた精霊は、体を起こして真剣な眼差しとなる。
「またいなくなっちゃうのは悲しいから、側にいてくださいね」
にっこりと微笑み、精霊は先を歩く主の元へと駆けて行く。
消沈し声すらも出せないでいるユーリの目の前で、重たい扉が閉められた。
*************
(あー、もう。どうしてこうなったかな)
一人きりとなった部屋で、ユーリは深く溜め息をついた。
己の右腕に視線を落とすと、金の腕輪が灯りを反射して輝いている。
魔術によって嵌められた腕輪は、どうやら魔術でしか外れないようになっているらしい。
ただ、彼も本気で力を込めてはいないだろうから、どうにか応用魔術を使えば外すことも可能かもしれない。
腕輪に手をかけた所で、しかし、彼女は一つ息をついて手を放した。
目を閉じると、浮かんでくるのは深い新緑の色。
昔の面影など、僅かにしか見出せないほど変わってしまったのに、自分に向けられた視線はあの頃と何一つ変わらない。
『行かないでくれ、ユーリ。余の側に居てくれ』
『二度と消えてしまわないでくれ、ユーリ。私の側に居てくれ』
幼かった彼と、現在の姿の彼が重なり、混じり、消えていく。
きつく瞼を閉じていたユーリは、やがて諦めたように苦笑を漏らした。
魔導具などより、自分を捕らえたのはあの眼差し。
(本当に、呆れるほど真っ直ぐで、私には眩しすぎる)
目を開くと、ユーリは部屋の灯りを消す。
辺りを暗闇が支配し、窓辺だけが月の光りで淡く照らされていた。
ユーリはそっと出窓に腰掛けると、夜の深さを増した空を見上げる。
大地を優しく包む月が、ただ静かに彼女を見下ろしていた。