まだ誰も起き出していないような早朝、ユーリは下女部屋を後にした。
トゥリジール山を越えた向こうまで帰らなければならない彼女は、朝一番の乗合い馬車で帰ることにしたのだ。
この時間なら、うまくすれば日の入り前に森に着くことができるかもしれない。

 同室者の少女達には、昨日の時点で別れを告げている。
少しの期間であったが、寝食を供にしていた分、仲間意識も強くなっていたようで、それぞれ離れ離れになる寂しさから、消灯を過ぎても話は絶えなかった。

 まだ朝もやのかかる王都は、冷え込んでいて吐く息が白く変わる。
ローブのフードを深くかぶって、ユーリは城門へと足を進めた。

 あの日、手を引かれるまま、唖然としながら通り過ぎた城門が、徐々に大きくなってくる。
近くまで歩いていくと、夜勤であったのだろう衛兵が声をかけてきた。


「お嬢ちゃん、今日出てくってことは、臨時雇用だったんかい? こんな朝早くに帰るのか」
「はい、トゥリジール山の向こうまで帰らなくてはいけないんで、一番の馬車に乗りたいんです」
「山の向こうってことは、ウジャルの村から来たのか。随分遠くから来たんだね、気をつけて帰りなよ」
「ありがとうございます」


 衛兵に馬車の乗り場を聞いて、ユーリは城門を出る。
一人を通すだけなので、入ったときのように門の鎖が上がることはなく、簡易の出入り用である木の扉をくぐる。
彼女が道にまで出ると、重たい音を立てて木戸が閉まった。

 ユーリは振り返り、王城を見上げる。
高い塀にさえぎられ、自分の過ごしていた宿舎は当然見えなかった。
お気に入りだった大樹の先だけを、微かに確認することができる。

 自分とは関わることのない、遠い世界だ。
きっと、もう二度とこの中に入ることはないだろう。
とても目まぐるしく過ぎた、夢のような日々だった。

 暫らく王城を見上げていたユーリは、踵を返して街の方へ歩き出す。
そうして、二度と振り返らなかった。

 昨日までと打って変わって、王都は静まり返っている。
殆どの露店は畳まれ、花弁もきれいに片付けられていた。
その中に栗毛の馬につながれた、乗合い馬車を見つけて駆け寄る。

 祭りの時だけ各地を結ぶために使われる馬車は、荷馬車を改良したもので木枠に雨よけ用の布地が張られていた。
入り口のかけ布を下ろそうとしていた御者に、ユーリは声をかける。


「すみません、ウジャル村方面に向かう馬車ですか?」
「そうだよ、もう出発するから、乗るなら早く乗りな」


 御者に代金を支払い、ユーリは馬車に乗り込んだ。
中は布が風除けとなっているためか、それなりに暖かい。
早朝の馬車であるため、客はまだ若い母と幼子の親子と、中年の夫婦が1組、若い男性が2人とまばらだ。
ユーリが親子の横に座ると、馬車がガタゴトと揺れ始める。
もう少し日が高くなるまで、暫らく眠ることにして、彼女は木枠に背を凭せ掛けて目を閉じた。





*************





 屋根代わりの布を激しく叩く雨音に、ユーリは不意に目を覚ました。
どうやら、いつの間にか本格的に眠り込んでしまっていたらしい。
まだうつろな視線で辺りを見渡すと、向かいに座っていた夫婦の妻が話しかけてきた。


「よく眠ってたわね」
「はい、祭りではしゃぎ過ぎて、けっこう疲れていたみたいです」


 ずっと同じ姿勢でいたせいか、体が固まってしまっている。
肩と背中が張っていて、重い痛みを感じた。
狭い馬車の中で、伸ばせるだけ腕を伸ばして首を回す。


「随分と酷い雨ですね」
「そうね、だいぶ強くなってきたみたい」
「私が眠って、けっこう時間が経ってますか?」


 天候のため、布の隙間から入ってくる光は、あまりなく馬車の中は薄暗い。
いまが朝なのか、昼なのか、まったく検討がつかなかった。


「4時間くらいは経ったんじゃないかしら。いま、トゥリジール山の迂回路に来たところ。この雨で地盤が緩んで、近道は通れないんですって」
「こんなに雨が降ってるのに、山に入ってしまったんですか? 危なくないのかな」
「雨脚が強くなってきたのは、随分と進んでしまってからだったの。もう山道の半分は過ぎてるから、次の村で今日は足止めになりそうね」


 嵐のような雨に道がぬかるみ、馬が時折足を取られて嘶く。
道の半分を過ぎているなら、わざわざ引き返すのは逆に危険だろう。
馬車の中で身を寄せる人たちの顔も、道の悪さにどこか不安げだ。
何もなければ良いのだけど、と女性を話をしていたユーリだったが、突然馬車が揺れ思わず木枠に掴まった。


「おい、何事だよ」
「どうやら車輪がぬかるみにはまったらしい、ちょっと降りてもらえないか」


 御者の言葉に、皆が顔を見合わせる。
こんな悪天候の中で、立ち往生するのは危険極まりない。
男達は御者を手伝うために、率先して外に出て行った。

 ローブを深くかぶり、ユーリも馬車の外に出た。
思っていた以上の雨と風に、ユーリは巻き上げられた髪を押さえる。
全身濡れ鼠となりながら、御者は馬を進ませようとし、男達は馬車を後ろから押す。
それでも、車輪が空回るだけで、なかなか前に進まない。


「仕方ない、馬だけ外して近くの町に助けを求めてくる」


 御者は神経質に嘶く馬を馬車から外し、客を外へ誘導する。
これ以上は無駄だと判断して、馬車を一旦諦めることになるようだ。
馬車の屋根は防水の魔法をかけてあるものの、祭りのために即席に作られたものであり、長時間暴風雨に曝されると水漏れを起こす可能性がある。
迎えが来るまで、全員でどこかの洞穴に避難する方が良いだろう。

 これからの段取りを話し合う大人たちを尻目に、幼子は暇を持て余して不満げな顔をしている。
暫らく我慢していたようだったが、痺れを切らした幼子が馬車に戻ろうと母親の手を振り払った。
慌てて腕を掴もうとする母親の手を振り切り、彼女は馬車に向かって一目散に駆け出す。

 幼子が馬車の入り口に手を伸ばしたとき、ユーリは崖の上からパラパラと小石が転がってくるのを目にした。
彼女が顔を上げるのと同時に、馬車の真上の地面が滑る。
その異様な音に振り向いた大人たちは、顔を青くして叫び声を上げた。


「崩れるぞ、馬車から離れろ!」


 幼子は意味も分からず、怒鳴られたと言う事実に顔を歪ませる。
誰かが舌打ちし、幼子に戻ってくるように声を上げた。
幼子は泣き出し、馬車の前に座り込む。
斜面の木々が傾き、母親が悲鳴混じりに幼子の名を呼ぶ。

 その横で、ユーリは地を蹴った。
ローブのフードが外れ、長い黒髪が舞う。
彼女は泣きじゃくる幼子の手を掴むと、力一杯引き寄せ、母親の方へと突き飛ばした。

 次の瞬間、地鳴りが響いて土砂が崩れ落ちてくる。
振り返る間もなく、彼女は自分の頭上が翳るのを感じた。






*************






 ラズフィスは窓際に立ち、トゥリジール山の方角を見つめる。
空はますます翳り、雨脚は強くなり、雷鳴が轟いていた。

 早朝に王都を発ったであろうユーリは、いま何処にいるだろうか。
山に入る前の街で足を止められているかもしれないし、あるいはすでに山を抜け、一息ついたところかもしれない。

 今日は魔術の授業にも身が入らず、教師に少し休憩するように言われてしまった。
溜め息を付いて、ラズフィスは室内に目を戻す。
ならば歴史の書物でも読もうかと書棚に近づいた時、俄かに自室の前が騒がしくなった。


「殿下、失礼いたします」


 声をかけて入ってきたのは、己の側仕えであるカーデュレンだった。
いつもは柔和な笑顔を浮かべていることの多い彼が、どこか強張った表情で膝をついた。


「どうしたのだ、お前らしくもない」
「殿下、落ち着いてお聞きください」


 カーデュレンの硬い声に、ラズフィスは唾を飲み込む。
何故だか、酷く嫌な予感がする。
緊張ゆえか、耳鳴りがするようで煩わしい。


「今朝方、王都を発ったウジャル村方面の乗合い馬車が一台、土砂崩れにあったようです」
「そ、れで。被害は……」


 喉がカラカラに渇き、張り付いて上手く声が出ない。
己の息が浅くなり、乱れるのが手に取るように分かる。


「約一名、幼子を助けようとした女性が、土砂崩れに巻き込まれ、行方が分からないと」


 一際強く、雷鳴が轟く。
近くに落ちたようで、窓の硝子がビリビリと震えた。
だが、ラズフィスの耳にはその激しい轟音も聞こえない。
自分の心臓の音だけが、煩く耳につく。
己の全身から血の気が引いていくのを感じながら、ラズフィスはカーデュレンを見下ろしていた。




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