数分後、かすみ堂の店内では、一種異様な光景が広がっていた。
普段と変わらぬ笑顔で成り行きを見守るこの店の店長と、長机の前に土下座の格好で固まる女子高生が一人。
そして、長机の上には、小さな老人が一人、どこか満足げな様子で茶を飲んでいた。
しかも、老人は人ならざるものであるが故、普通の人間には見えないのである。
つまりは、他人から見れば、笑顔の店長の前に土下座する女子高生、という図ができあがっているのだ。
今この瞬間にかすみ堂に入ってきた人間がいたら、すぐさま回れ右をしたことだろう。
そんな異常な景色の一部となっている陽菜子は、顔を引き攣らせながらくどくどと続く山神の小言に耐えていた。
『ふん、小娘。わしの偉大さが分かったか? 全く、ちびっちゃいなどと、二度と口にするでないぞ』
「うぅ、すみませんでした」
ようやくお許しが出たことで、陽菜子は内心でほうと息をついた。
失礼な態度であったことは認めるが、30分以上も説教をされては、心身ともに疲労困憊である。
現代っ子である陽菜子は、正座をする機会は殆どない。
両足はじんじんと痺れており、このまま立ち上がったら確実に転ぶと自信を持って言えるだろう。
こっそりと両足を擦りながら、陽菜子はちらりと山神に視線を向けた。
当然ながら、陽菜子は神様にお会いしたことなど、今まで一度もない。
でも、何となく、荘厳で近寄りがたいイメージを持っている。
それが、目の前の山神ときたら、ガミガミと口うるさくて、片手に乗るくらいに小さい。
おまけに、自分の顔より大きなぼた餅にかぶりつき、口の周りをあんこでベタベタにしているのだ。
その姿は、とても威厳とはかけ離れている。
不思議現象初心者である陽菜子が、そんなちびっちゃいお爺さんと神様が結び付かなくても仕方がないではないか。
陽菜子の心の声が聞こえたかのように、口と両手についたあんこを手拭いで拭いていた山神が、ぎろりと此方に振り返った。
『小娘、お主、今何ぞ失礼な事を考えてはおらんかったか?』
「わー! 思ってません、思ってませんってばー!」
とっさに頭を庇いながら喚く陽菜子を、山神はフンと鼻で笑う。
そんな一人と一神を面白そうに眺めていた店長だったが、暫くするとぱしんと一つ手を打ち鳴らした。
「まぁまぁ、山神様もひなちゃんを苛めるのはそれくらいにして、そろそろ本題に移りません?」
『ふむ、それもそうじゃな』
本来の目的を思い出したらしい山神は、咳払いをすると厳しい顔で腕を組む。
陽菜子も、頭の手はそのままに、そろりと長机に近付き、山神の話を聞くためにその場に座り込んだ。
山神は、思い出すように目を細めながら、事の顛末をぽつりぽつりと語りだした。
それは、数日前のある夜更けのことだった。
山神や眷属の獣達は、山の中腹にある祠の前で宴を開いていた。
宴もたけなわとなったころ、獣達は山神を楽しませようと、あれやこれやと芸を始めた。
その内に、いつの間にやら力比べが始まってしまったのだが、思えばこれがいけなかったのだ。
この山で一番の力持ちである猪を負かそうと、他の獣達は知恵を絞りながら対抗していた。
そんな時、何かが割れるような大きな音が、猪の後で響いたのだ。
気性が荒いと思われがちだが、猪とは案外臆病な生き物である。
力比べに集中していた猪は、音に驚いて飛び上がると、悲鳴を上げながら突進し始めたのだ。
周りの獣達は一目散に猪の正面から逃げたのだが、唯一その場から動けなくなってしまったものがいた。
今年の春に生まれたばかりの、野兎のこどもだった。
あまりの恐怖に震えたまま動けない子兎の目前に、疾走する猪の牙が迫る。
その鋭い牙が、子兎を傷つけるかと思われた時、山神の腕が小さな命を抱きかかえた。
代わりに猪の牙が山神の腕を掠め、その拍子に山神の手首を飾っていた御統玉が抜けた。
山神は僅かに眉を顰めたものの、取り敢えず距離をおくため、その場を飛び退く。
大きな木の幹に頭から突っ込んだ猪は、甲高い鳴き声を上げながら森の奥へと駆けて行った。
間一髪の所で難を逃れた子兎は、山神の腕から降ろされると、一目散に母親と兄弟のもとへと跳ねていった。
子兎が家族の輪に飛び込むのを見守ってから、山神は自分の手首に視線を落とす。
だが、何度確認しようとも、やはりそこに己の御統玉は見当たらなかった。
騒動がひとまず落ち着いてから、山神は眷属たる森の獣達と共に己の御統玉を探した。
しかし、森の中を隈無く探しても、一向にその行方は知れなかった。
獣達を棲み処にかえしながら、不味いことになったぞと、山神は内心で舌打ちをした。
これだけ探して見当たらないとなれば、あとは猪の牙に引っかかっていると考えて間違いないだろう。
この御統玉というのが、その一玉一玉に山神の神力を込めた二つとない逸品であった。
山神は余った力を御統玉に封じたり、力を使いすぎた時には、溜めておいた神力で補ったりして己の力を調節をしていた。
つまり、御統玉は山神の神力の一部と言っても過言ではない。
猪は山神の眷属として、ある程度その神力に耐性がある。
しかし、御統玉に込められた濃密な神気に曝され続ければ、狂ってしまってもおかしくないのだ。
早く取り返さなければ、とんでもないことになってしまう。
だが、生憎、この森で最も身体が大きく、力の強い獣が猪であった。
そんな彼に、森の小さな獣達が敵うはずもない。
何か上手い手は無いものかと考え込んでいた山神の頭に、一人協力を仰げそうな人物の顔が過った。
善は急げということで、獣達に留守を任せ、さっそく町へと下りて来たのだそうだ。
そんな山神の話を黙って聞いていた陽菜子だったが、一つ疑問が浮かび、首を傾げながら山神へと視線を向けた。
「でも、山神様は神様なんですよね? それなら猪よりずっと強いだろうし、自分でそのミホギダマって言うのを取り返せば良かったんじゃ……」
『馬鹿者、今のわしは、力が余り過ぎておるのじゃぞ。加減ができぬ分、下手をすればあやつを傷つけてしまうかもしれん』
「そこで、ひなちゃんと、祥くんに頑張ってもらいたいってわけ」
山神に続いた店長の言葉に、陽菜子は目を丸めて声を上げた。
「え? 店長が行くんじゃないんですか?」
「僕は残念ながら外せない用事があって、暫らく店を空けなくちゃならないんだ」
ごめんね、と言って小首を傾げながら、店長は笑みを浮かべる。
正直に言えば、大の大人、しかも成人男性がその仕草をしても、ちっとも可愛くない。
不満げに頬を膨らませる陽菜子だったが、店長はそんな彼女を半ば無視して話を進める。
「と言う訳だから、明日は動きやすい服装で集合ね」
「って、明日ですか! ちょっと急すぎじゃないですか?」
突然の展開に、陽菜子は慌てて待ったをかけた。
「明日は丁度土曜日だし、君達も時間が取れるじゃない? それに、猪の棲み処は登山道から外れてるけど、もし何かのきっかけで登山者と猪が出会っちゃったら危ないでしょう。だから、早めに解決したいんだよね」
「それって、私達だって危ないってことじゃないですか!」
「そこは、ほら。山神様もついてるし、それに、僕も君達の助けになるようなものを準備しておくから。ね?」
憤慨する陽菜子に、店長はのほほんとした笑顔で答える。
急がなければならない事態であることも、山神が助けを必要としていることも分かっているため、陽菜子としても強くは拒否できない。
せめてもの反抗にじと目で店長を見やってから、彼女は大きな溜め息を吐き出した。
「もう、分かりましたよぉ」
「ふふふ、さすがひなちゃん。頼りになるなあ」
「そんな風に煽てたって、何にも出ませんからね!」
詳しい話は明日、集合した時に話すということで、山神も一旦祠へと帰ることになった。
ぶうぶうと文句を言いながら、陽菜子は店番の仕度をするために店の奥へと引っ込んでいく。
彼女が消えていった先で、一瞬の静寂の後、やんややんやと騒ぐ声と、小さな悲鳴が聞こえてきた。
恐らく、店の裏で暇を持て余していた小妖怪達に飛び掛られでもしたのだろう。
思わず笑みを漏らした店長の傍で、湯飲みに残ったお茶を飲み干していた山神が問いかけた。
『時に神凪よ、神代の小童はどうしておる。今日はとんと姿を見かけんぞ』
「あー、祥くんなら、学校に行ってるんですよ」
『ほぅ、ようやく外へ出る気になったか』
店長の答えに、山神は驚きを隠さず反応する。
「まぁ、まだ周りに馴染むってところまではいってないみたいですけどねぇ」
『ふむ、じゃが、他に目を向けるようになっただけ重畳よ』
小さく頷いてから、山神は目を細めて僅かに笑みを浮かべた。
『人とは良くも、悪くも、変わっていく生き物じゃ。いずれ、傷も癒えよう』
「えぇ、そうなることを祈ってますよ」
苦笑を浮かべながら、店長は店の外へと視線を向ける。
開け放たれた戸の向こうで、重たげに枝を垂らした柳が、風に吹かれてさわりさわりと揺れていた。