陽菜子がその存在と出会ったのは、うららかな春の昼下がりだった。
夜は冷え込むことも多いが、昼間は随分と暖かくなり、この頃では少し動くとじんわりと汗が滲む。
川原に視線を向ければ、染井吉野に遅れて花をつけていた八重桜も、もう盛りを過ぎ、道端には鮮やかな花弁が散っている。
それを横目に眺めながら、陽菜子はかすみ堂への道を駆けていた。

川に沿って続く歩道を反れ、住宅街を抜けると馴染み深い商店街のアーケードが見えてくる。
午後の授業を終えた今の時間は、夕飯の仕度の為に訪れる買い物客で賑わいを見せる頃合だ。

顔見知りの客や商店街の人達に挨拶をしながら、陽菜子は少し薄暗い路地裏へと滑り込む。
建物や植木で影になっているそこは、それだけでひんやりとして涼しい。
首筋に滲んだ汗を拭いつつ、陽菜子はかすみ堂の引き戸に手をかけた。


「こんにちはー!」
「おや、ひなちゃん、お帰り」
「あれ、店長? 珍しいですね、この時間にお店に出てるの」


即座に返ってきた答えに、陽菜子は戸を閉める手を止め、思わず目を瞬いた。
普段であれば、この時間、店長は店の奥に引っ込んでいる事が多い。
何より、いつもは陽菜子が戸を開けると同時に飛び込んでくる、小妖怪達の騒ぎ声が聞こえないのだ。
陽菜子は首を傾げながら、開け放したままだった戸を後ろ手で閉めた。


「うーん、まぁ、今お客さんが来てるからねぇ」
「お客さん?」


店長の言葉に、陽菜子は店内を見渡す。
少し薄暗い店の中は、しんと静まり返り、来客の気配はない。
あえて変わったところを上げるとするなら、店長の前にある長机の上に、二つの湯飲みと茶菓子があるということだろうか。
更に加えれば、その一方は随分とミニサイズなのである。

小豆大の皿には、一口サイズに切り分けられたぼた餅がのせられている。
その横に、小指の爪程の湯飲みがおかれ、どうやったのか並々と緑茶が注がれていた。
そして、同じく小さな座布団の上には、片手の上に乗りそうなほど小さな老人が、どっかりと胡座をかいていたのだ。


「何か、ちびっちゃい……」


思わず陽菜子が漏らした瞬間、好々爺然とした老人の瞳の奥が、きらりと怪しく光った。
次の瞬間、小さな体に見合わぬ速さで飛び上がった老人は、持っていた木の杖を振りかぶり、落ちてくる勢いのまま陽菜子の頭上にその杖を振り下ろした。


『この罰当たりめが!』
「わー!!」


ぺしぺしと続けざまに叩かれ、陽菜子は頭を抱えてしゃがみ込む。
暫らくそうしていた老人は、ようやく満足したのか、ふんと鼻息荒く息を吐き出し、陽菜子の頭から長机に飛び乗った。
偉そうに両腕をくんでふんぞり返ると、老人は成り行きを見守っていた店長へと怒りの矛先を向ける。


『全く、けしからん。この小娘といい、近頃の人間は敬う心が欠けておる。お主の教育がなっとらんからじゃぞ、神凪!』
「えー、僕のせいかなぁ?」


のらりくらりとかわす店長に、老人は顔を真っ赤にし、憤慨した様子で声を荒げている。
叩かれた頭を撫でつつ、そんな様子を眺めていた陽菜子は、はてと首を傾げた。


(かんなぎって、前にも聞いたことがあるような……)


確か、陽菜子の抜け出した魂を体に戻すために、絵本の中に入った時だ。
枝をくれる前に、白樹達がそんな言葉を口にしていた気がする。
結局、それが何であるかは分からなかったが、目の前の老人が店長に向かってその言葉を吐いたと言う事は、彼が何か関係しているのかもしれない。

そんなことをぼんやりと考えていた陽菜子だったが、一つ重要なことを思い出した。
未だに話し続けている店長と老人の間に割り込むのは勇気がいるが、恐る恐る声をかける。


「あ、あの……」
「うん? なぁに、ひなちゃん」


ぴたりと話を止めた二対の瞳に直視され、陽菜子は一瞬口ごもる。
そうして僅かに目を泳がせた後、長机の上で胡坐をかく老人に視線を止めた。


「このちびっちゃいお爺さん……小柄なご老人は、一体どちら様なんでしょう」


お爺さんと声にした瞬間、再びギラリと老人の目が光ったため、陽菜子は慌てて言い直す。
そんな陽菜子と老人の様子を気にもせず、店長は顎に手を当て、少し考えるように首を傾げる。


「えーっとね。丸峰神社の裏に、ちょっとした山があるでしょう」
「はぁ」


陽菜子の住む町は、それなりに栄えているが、少し奥に行けばまだまだ緑の残る場所がたくさんある。
町の端に位置する丸峰神社もそんな場所の一つだった。
神社の境内の奥から登山道に繋がっており、気軽に登山を楽しめるその山は、狸や梟、大きな獣では猪なんかも生息しているらしい。
それ程高いわけでもなく、都心からのアクセスも良いため、週末ともなれば多くの登山客で賑わいを見せる。

そんな山と、この小さな老人に一体何の関係があるというのだろうか。
関連性がいまいちピンとこない陽菜子は、内心で盛大に顔を顰めた。
そんな彼女に、店長は笑顔のまま、気軽に知人を紹介するように片手で老人を示す。


「こちら、そのお山の神様」
「……へ?」


直ぐには店長の発した言葉が飲み込めず、陽菜子は暫し思考を止めて固まった。
意味が理解できてくるに従って、彼女の顔色もどことなく青白くなってくる。
わなわなと唇を震わせながら、ようやく陽菜子は絞り出すように声を出した。


「か……」
「か?」


店長が小首を傾げながら陽菜子の口にした言葉を繰り返すが、それに反応する気持ちの余裕もない。


「神様ぁぁああ!?」


零れ落ちんばかりに両目を見開いた彼女は、直後、店が揺れるのではないかと思うほどの大声で絶叫したのだった。




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