「”おとの”の硯?」
『そうじゃあ』


頭の中で疑問符を並べ、陽菜子は小首を傾げる。


『おとのはのぉ、いっつもたくさんの人間に囲まれておったわ』


硯はそんな彼女を気に留めず、懐かしそうに語り始めた。
老人が昔話を好むのは、人でも妖でも変わらないらしい。


『わしはおとのが幼い時から一緒におってのう、わしで墨をすっては拙い手で書を書いておった』


爺ちゃんは、昔は柔道で一番だったんよ、と嬉しそうに話す祖父の姿が硯に重なった。
そう言えば、随分と田舎に帰ってないなと陽菜子が想いを馳せている間にも、硯の昔話は続く。


『毎日楽しそうにわしで墨をするおとのを見るのが、そりゃあ楽しみじゃった』


そこまで、明るい調子で話をしていた硯だったが、急に話を止めると深々と息を吐いた。
物憂げなその様子に、陽菜子は硯に意識を戻す。


『じゃがの、いつの頃からか、おとのが書を書く時間が短こうなってのぉ』


時々、こほこほと咳をしながら、少ない時間であってもおとのは毎日文机に座っていた。
だか、それも1日空き、2日空きと徐々に机に向かう日が少なくなった。
仕舞いには他者に墨をすらせ、何とか筆を持つこともあったのだという。
それから暫らくして、誰もが硯で墨を摩る事がなくなった。
気が付いた時には、いつの間にかこの店に預けられていたのだそうだ。


『わしがここに預けられてから、おとのにはとんと会うておらぬ』


気を落としたような声色で、硯はぽつりと呟いた。


『最近は仲間も増えぬし、おとのもおらぬで、つまらんのう』


途中から黙って話を聞いていた陽菜子は、ある仮定に辿りついていた。
咳をするようになったという硯の元持ち主は、身体が弱っていたのではないだろうか。
書を書かなくなったのではなく、書けなくなったのだとしたら。
もし陽菜子の仮定が正しいのであれば、硯の言うおとのは既にこの世には居ないのかもしれない。
だが、それを硯に伝えるのは、どうしても戸惑われた。


『はようおとのに会いたいのう』


いつかおとのに会えると信じている硯に、思わず陽菜子が口を開きかけた時、彼女の肩が静かに叩かれる。


「……神代くん」


振り返ると、祥がじっとこちらを見詰めていた。
陽菜子が困りきった表情で見返すと、彼は無言で首を振る。


『寂しいのう』


密やかに呟かれた硯の声が、店内に小さく響いた。




*************





その夜、――陽菜子は不思議な夢を見た。



不意に目を覚ました陽菜子は、飛び込んできた見慣れぬ風景に唖然とする。
燦々と輝く太陽が室内を照らし、開け放たれた障子の向こうは広大な庭。
通り抜けた風で、敷き詰められた畳からイグサの匂いがふわりと香る。
天井を見上げれば、立派な梁が架けられた日本家屋のようだ。
確実に自分の部屋でないことは確かだが、では一体ここはどこなのだろうか。

訝しみながら、何気なく自分の身体を見下ろした陽菜子は、ぎょっとして目を瞠った。
幽体離脱をした時のように、半透明に透けている身体に、我知らず嫌な汗が流れる。

店長からもらった白樹のネックレスは、眠るときには外している。
今まで眠っている最中に魂が抜けてしまったことはなかったから、正直油断していた。
そんな風に慌てていたものだから、陽菜子は近付いてくる足音に気付かなかった。


『おじじ様、わたくしに見せたいものとはなんでございましょう』


突然聞こえた幼い声に、驚いて振り返る。
いつの間にか、戸口には二人の人間が立っていた。
しかし、その風体に、陽菜子は思わずあんぐりと口を開ける。

彼らは今時珍しく着物を着ていたが、陽菜子が驚いたのは彼らの髪型だった。
子供の方は黒髪を左右に分け、肩で切りそろえられた髪型で、特に変なところはない。
だが、白髪交じりの大人の方は髷を結っていたのだ。

自分は、時代劇の収録にでも迷い込んでしまったのだろうか。
混乱する陽菜子の横を素通りした二人は、古びた棚の前で足を止めた。
男性は棚から風呂敷に包まれたものを取り出すと、子供に両手を出させその上にそれを置く。


『おじじ様?』
『開けてみよ』


不思議そうにしていた子供だったが、畳に正座するとおずおずと結び目を解いた。
その様子を背後から見守っていた陽菜子は、子供が取り出したモノに驚いて声を上げそうになる。
なぜなら、彼が矯めつ眇めつ眺めていたのは、淵に龍が施されたあの硯だったからだ。


『それは、そなたの父が使っていたものぞ』
『え?』


子供は男性の言葉に、驚いたように動きを止めた。


『そなたの父は熱心な男であった。そなたもよく学び、励めよ』
『……はい!』


硯を抱きしめ、子供は男性に力強く頷いてみせる。
男性が部屋から出て言った後、子供はそっと硯に話しかけた。


『硯、そなたはわたしの父上を知っているのだろう?』


当然、物が答えるはずがない。
だが、子供は嬉しそうに頬を綻ばせて目を細めた。


『父上の事はよく存じ上げぬが、素晴らしい方だったのだそうだ。わたしも、父上のようになれるだろうか』


硯を胸に抱いていた子供だったが、それを風呂敷の上に置くと、再び丁寧に包み始めた。
子供が立ち上がって部屋を出た瞬間、突然世界が歪んだ。
ぐらぐらと揺れる視界に、陽菜子は目を瞑る。

ようやく眩暈が治まって目を開けた時、陽菜子はまた違う部屋に佇んでいた。
夕暮れの部屋には茜色の日が入り、木々の影が長く伸びている。
陽菜子が立っていたのは、廊下だったようで、向こうの方から一人の若い男が近付いてくるのが見えた。
彼は陽菜子が佇んでいた部屋の前で足を止めると、中に向かって声をかけた。


『殿、失礼いたします』


彼が障子の戸を開けると、文机の前に座っていた髷の男性が此方を振り返った。
男性は先程の光景で見た白髪交じりの男と良く似ていたが、幾分か穏やかな表情をしている。
嬉しそうな笑みを浮かべた彼が、硯を手にした子供と重なった。


『おお、戻ったか』


男性は風呂敷を差し出し、平伏する男に近付く。
彼は風呂敷を広げ、中に入っていた硯を確認した。


『これは見事な仕事ぶりだ』


大切そうに硯を持ち上げた男性は、その端の部分を指で優しくなぞる。


『この硯は父の代から使っているものでな。欠けているのに気付いたときは、肝が冷えたわ』


安堵したように息を吐き、男性は硯を運んできた男に労いの言葉をかけた。
男が去ってから、男性は硯を文机に置き、書道具を手元に引き寄せる。
中から墨を取り出すと、硯に数滴水を垂らす。
ゆっくりと円を描く様に墨をすりながら、男性は小さく呟いた。


『やはり、そなたでないと良い墨がすれぬな、硯よ』


硯に話しかける姿に、陽菜子はこちらに背を向ける男性が、先程の子供であったことに気付く。
何度も墨をする作業を続ける彼を見ているうちに、再び世界が揺らぎ始めた。

目を開けた時には、辺りはすっかりと暗がりに包まれていた。
室内では行灯の灯りが微かに揺らめいている。
その中で、こほこほと咳をする音が聞こえ、陽菜子は背後を振り返った。

文机の前で、白髪の男性が背を丸めて咳き込んでいる。
側に付き添っていた男が、彼の背を擦りながら声をかけた。


『大殿、ご無理は禁物にございます。あまり根をつめてはお体に障りましょう』


男は肩で息をする男性を導き、床につかせる。
荒い呼吸を繰り返していた男性は、男を見上げて顔を歪めた。


『すまぬな、仙十郎よ。苦労をかける』


ようやく息が落ち着いてきた男性は、最後に大きく息を吐き出した。


『墨もすれぬようになっては、わしも終わりぞ』
『なにを申されますか、じきに病も良くなりましょう』


そう声をかける男に、横たわる男性はただ笑みを返すだけだった。
次に場面が変わった時、そこには男も、白髪の男性も居なかった。
その代わり、室内にはさめざめと涙を流す老いた女性がいた。


『大殿はほんに書のお好きな方でございました』


女性はまるで慈しむように、側にあった文箱を撫でる。


『今年の桜は、供に愛でようと仰せでしたのに、この様な……』


みるみる間にその瞳には雫が漏り上がり、彼女は着物の袖で己の目元を隠した。
その様子をみた周りの女性達も、同じように目頭を押さえる。
暫らくすすり泣きが部屋を満たしたが、側に控えていた年配の女性が主である彼女に声をかけた。


『大奥様、こちらの書道具は如何いたしましょう』
『これは、大殿のよう使うておられたもの。妾が逝くまで手元に置いておくとしよう』


そっと女性が硯を抱き寄せた瞬間、世界は暗闇に変わった。
僅かな灯りすらなく、どこからが闇で、どこから自分の身体なのかも分からない。
ひんやりとした空気に身を震わせて、陽菜子は自分を抱きしめる。
そんな時、小さな声が聞こえた。


(……クライ……サビシイ)


寂しい、寂しいと声を上げながら、誰かが泣いている。
その悲しげな声に、陽菜子は思わず胸を押さえた。
徐々に膨らむ誰かの感情は、陽菜子の心を振るわせた。


(……アイタイ……アイタイ……”オトノ”ガイナイ)


流れ込んできた想いに、陽菜子ははっとして顔を上げた。


「……硯?」


小さく呟いた瞬間、眩い光りが陽菜子の視界を焼いた。
再び世界が揺らぎ始め、今度は深くに意識が沈んでいく感覚がある。


(……――おとのにあいたいのう)


遠のく意識の中、耳の奥で硯の声が響いた気がした。




*************





「……っあ……」


目を開けた時、飛び込んできたのは見慣れた天井だった。
恐る恐る持ち上げた手は、透けることなく日の光りを遮る。
安堵しながら額に手をやった陽菜子は、自分の瞼が腫れている事に気付いた。


「寝ながら泣くなんて、器用なことしたなぁ」


独り言を呟きながら、陽菜子は両手で顔を覆う。
中々降りて来ないことを心配して、母親が部屋に顔を覗かせるまで、陽菜子はそうして静かに目を瞑っていた。




次へ 
 
前へ 
 
目次へ