「おはよう、陽菜ちゃん」
「千春ちゃん、おはよう!」


陽菜子が教室のドアを開けると、前の席に座る友人が笑顔で手を振っている。
駆け寄って朝の挨拶をし、陽菜子は自分も席についた。


「宿題やってきた?」
「うん、難しかったけど、なんとかなったかな」


苦笑しながら鞄を開けた途端、陽菜子は笑顔のままびしりと固まった。


『おぉ、ここがガッコウか?』
『人の子がたくさんおるわい』
『妖の気もあるのう』
『賑やかじゃのう』


鞄の口からわらわらと首を出した小妖怪達が、興味深げに室内を見渡している。
彼らを無理やり中に押し込み、陽菜子は思わずチャックを閉めた。


『これ、ひな! 何をするか!』
『子分の癖に生意気な!』
『開けろー!』
「陽菜ちゃん、教科書出さないの?」
「う……うん、もう少ししてから出そうかなぁ」


不思議そうに尋ねてくる友人に、陽菜子は引き攣った笑顔のまま何とか答えを返す。
鞄から聞こえる声に冷や汗を流しながら、陽菜子は鞄を後ろ手に隠した。


(お願いだから静かにしてて!)


鞄越しに陽菜子をぽこぽこと殴る妖怪達は、口々にやいのやいのと騒いでいる。
普通の人間には見えないし、聞こえないとは分かっているが気が気ではない。
暫らく小首を傾げていた千春だったが、担任が教室へ入ってくると慌てて前を向いた。
友人の背中と、日直に号令を掛けさせる先生を見ながら、そっと鞄を身体の前に持ってくる。


『これ、出さんか!』
『おのれ、我ら妖の恐ろしさを教えてやる時が来たか』
『こうなったら、擽りの呪いじゃ。身をよじって苦しむが良い』


この鞄の口を開けたが最後、きっと通常の学校生活は送れないだろう。
その確かな予感に、陽菜子は頭痛がしてきて、思わず頭を抱えた。




*************




「……ってことがあったんだけど、神代くんもよくそういうことあるの?」


放課後、無事に店まで辿り着いた陽菜子は、先に仕事を始めていた祥に尋ねた。
陽菜子の予感は見事に的中し、今日は今までで一番忙しい一日だった。

小妖怪達はそれはそれは自由気ままで、やれ探索だ、やれ勝負だとちっとも大人しくしていない。
鞄から抜け出してはどこかに行ってしまい、そのたびに陽菜子は校内を探し回る羽目になった。
妖怪達が学校探索に飽きてノートの上で相撲大会を始める頃には、精根尽きてぐったりと机に突っ伏していた。

これ以上彼らの好きにさせるわけにはいかないと、HRが終わると同時に妖怪達を鞄に詰め込み、一目散に店までやってきたのだ。
ソファーに凭れるようにして座る陽菜子を見ながら、小妖怪達はぺちゃぺちゃと話を始める。


『ひなはだらしがないのう』
『しかし、ようやくガッコウがどんなものか分かったわ』
『今まで見たことがなかったからのう』
『まったく、神代の小僧はひなより頭が良くていけない』
『我らが鞄に潜むと直ぐに気づきよる』


妖怪達の話を聞き、陽菜子は祥へと視線を向ける。
彼は呆れたような表情で小妖怪を見やった。


「鞄の中であれだけ騒いでいたら、普通は気付くだろう」
『じゃが、おぬしの時よりもよほど騒いでおったが、ひなは全く気付かんかったぞ』
『そうじゃ、そうじゃ!』
『鞄の中で隠れ鬼をしておっても、気付かんかった』


妖怪達の主張を聞いた祥は、振り返って陽菜子へと視線を向ける。
笑顔を引き攣らせたまま、陽菜子はあらぬ方に視線をやった。


「藤森」
「……だって、その、すごく急いでたから」


昨日は遅くまで宿題をしていたために、家を出たのは遅刻ぎりぎりの時間だったのだ。
鞄の中身まで、気にしている余裕はなかった。
決して、陽菜子が鈍かったから気付かなかったわけではないはずだ。
しかし、今度からは十分気をつけようと陽菜子が新たな決意をした時、店の戸がガラガラと音を立てた。


「すみませーん」
「あ、はーい」


どうやら客がやってきたらしい。
あの幽体離脱騒動から、この店でバイトを始めた陽菜子は咄嗟に声を上げる。
慌てて制服の上着を脱ぎ、ワイシャツの上からエプロンをつけた。


「えっと、何をお探しですか?」
「年代物の硯が欲しくて。こちらに、売ってますか?」
「はい、ちょっとお待ち下さい」


昨日、陳列棚の叩きを掛けた時、奥から三番目の棚で硯を見かけた記憶がある。
商品を取りに行った陽菜子は、棚を見上げて小首を傾げた。
硯があった場所はぽっかりと開いており、どこにも商品が見当たらない。
昨日の帰り際にはそこにあったと思ったのだが、午前中のうちに売れてしまったのだろうか。


「すみません、どうやら今朝売れてしまったみたいで……」
「あぁ、そうか。じゃあ、仕方がないね」


残念そうにして去って行く客を見送り、何気なく振り返った陽菜子は思わずあんぐりと口を開ける。
先程まで何もなかったはずの場所に、昨日見た硯が元々あったかのように自然に置かれていた。
何度も目を擦ってみたが、やはりそこから硯が消えることはない。
じっと見詰め続けていると、突然硯ががたりと動き、何と自ら位置を整えたのだ。


「か……か、神代くん!」
「どうかしたか?」
「あの硯、うご、動いた」
「硯?」


反対側の棚で商品を陳列していた祥が、こちらに回ってくると、陽菜子の指差す先を確認する。
件の硯を目に留めると、納得したように頷いた。


「藤森、あれは付喪神だ」
「付喪神って、よく絵巻物に描かれてる、傘とか草履とかのお化けのこと?」
「長く使われた物に、神や霊魂が宿ったものだと言われている」
「へ、へー」


祥の解説を聞いて、陽菜子は改めて硯に目をやる。
確かに、淵に龍があしらわれたあの硯は、随分と古い代物のように見えた。
しかし、そんな神が宿ったようなモノを商品として売っても良いのだろうか。
それとも、勝手に硯があの場所を気に入っているだけで、本当は商品ではないのだろうか。
浮かんでくる疑問に首を傾げていると、突然硯がガタリと動いた。


『これぇ、むすめっこ』
「は、はい!」


間延びした老人のような声に呼ばわれ、陽菜子は返事をして姿勢を正した。
声の主である硯は、陽菜子の様子に満足したように息を吐く。


『わしはこれから重要なことを教えるからのぉ。ここで働くなら、よう覚えておくのじゃぞ』


恐らく、硯に身体があったなら、自慢げに胸を張っていたことだろう。
それほど誇らしげな声で、硯は高らかに陽菜子に告げた。


『よいか、わしはおとのの硯じゃあ。他のものの元には行きとうない』




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