「あのさ、どう言うつもりなわけ?」
「あぁ?」
要領を得ないボルトの問いに、アレクシスは眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに片眉を跳ね上げた。
机の上に航海図が広げられているところから予測するに、テネロリアへ向かうための航路を検討していたのだろう。
相変わらず坊っちゃんには甘いなと思うが、それはアレクシスに限ったことではない。
恐らく、自分をはじめとする、大方のクルーはリオに甘い。
何せ、彼は自分達にとって弟のような、息子のような、或いは孫のような存在である。
そして、何よりメリッサの息子で、あの人の孫なのだ。
甘くならない方が可笑しい。
ボルトがつらつらとそんなことを考えていると、アレクシスが深々と溜め息を付いた。
「お前、とうとう人語も話せないほど脳みそ腐ったのか?」
「腐ってねぇし! ってか、俺がバカになったなら、それってお前のせいだかんね。大体、今俺の口の端が切れてるのだって、アレクシスがぶん殴ったせいでしょうが!」
呆れたような視線を送ってくるアレクシスに、ボルトは己の唇の端を指差しながら抗議の声をあげる。
リオが件の鍵を引っ提げて部屋に戻ってきた時に、ある程度の覚悟と予想はしていたが、案の定、顔を会わせた直後に一発拳をくらったのだ。
考えていたよりも軽傷ですんだわけだが、痛いものは痛い。
叫んだ拍子にピリッと痛みを訴えた傷口に、ボルトは思わず渋い表情をした。
「殴られるより、半殺しの方が良かったのか? お望みなら、今からでもやってやるぞ」
「遠慮します」
真顔で空恐ろしいことを口にするアレクシスに、ボルトはげんなりと肩を落とす。
冗談だと思いたいが、アレクシスの場合は本気でやりかねない。
これ以上痛い目に合うのは勘弁願いたく、ボルトは話題を反らすために本筋へ話を戻した。
「だからさ、俺が言いたいのは、何であいつを部屋から出すのを許可したのかってこと」
「……別に、特に理由なんてねぇよ」
ボルトの問いに、肩を竦めつつ適当に返してから、アレクシスは航海図に視線を落とす。
興味がない風を装ってはいるが、付き合いの長い自分には、それがこの話題を終わらせたいが為の態度だと分かる。
何時もなら、アレクシスの機嫌も考慮してこの辺りで引き下がるのだが、今回はそうもいかない。
なにせ、これはボルトにとって、そしてアレクシスにとって、何よりこの船にとって大切なことなのだ。
だからこそ、この異常事態を無碍にするわけにはいかず、ボルトは机に手を付いて身を乗り出した。
「いいや、明らかにおかしいね。だってお前、今まで客として同乗した商人にだって、船内を自由に歩かせたりしなかったじゃん」
この海賊船はそれなりに名を馳せており、様々なところに目を付けられている。
それ故に、軍や他船からのスパイには警戒を怠らない。
特にアレクシスは慎重な部類で、いかな上客であろうとも、他人に船内を自由に歩かせることはしなかった。
文句があるならこの船に乗るな、他を当たれと言って依頼を蹴ることもままある程だ。
そんな彼が、身元のはっきりしない人間に、限定的とはいえ自由を与えたのだ。
これを異常と言わずして、何を言うのだろうか。
「しつけぇな、理由はねぇって言ってんだろう。ただ、鍵を渡さないとリオが煩かったから好きにさせただけだ」
なおも食い下がってくるボルトに、アレクシスは視線だけを上げ、鬱陶しそうに睨み付ける。
その視線を無視して、再度問い詰めようと口を開いたボルトであったが、鼻先に指を突きつけられて思わず口をつぐむ。
そうして、次に続いたアレクシスの言葉に、ひくりと口元を引きつらせた。
「そんなことより、ローがお前のことを探してたぞ」
「げっ……、マジで?」
「こんな事で嘘付いてどうすんだ。しかも、滅茶苦茶良い笑顔だったな。お前、何したんだ?」
「ヤバい。心当たりが多すぎて、何が理由か分からない」
普段、冷静であまり感情を顕にしないローであるが、怒らせると怖い人間の筆頭である。
この船に乗ってきた当初こそ若いクルーに悪ふざけや嫌がらせを受けたりもしたが、今そのような馬鹿をやらかす猛者はいない。
精々、新入りが優男と侮って手酷い仕返しを食らうくらいである。
ローが爽やかすぎる笑顔を浮かべている時というのは、相当腹に据えかねているときか、かなり機嫌が良い時かのどちらかだ。
そして、自分を探している時というのは、概ね前者であることが多い。
蒼褪めたボルトのこめかみを冷や汗が伝い、背筋にもじんわりと嫌な汗が滲む。
「とにかく、さっさと行けよ。リオがいる間は、なるべく死人は出したくないからな」
「ちょっと、縁起の悪いこと言わないでくんない?」
早く出ていけと言うように手を振るアレクシスに、ボルトは引きつった表情のまま足早に部屋を出ていった。
それを横目で見送ったアレクシスは、椅子の背もたれに深く身を預けると、天井を仰ぎ、瞼を閉じてから深い溜め息を吐いた。
(理由だ? そんなの知るかよ。むしろ、俺の方が聞きたいくらいだ)
内心で一人ごちりながら、アレクシスはズキズキと痛むこめかみを揉む。
初めにリオがあの奴隷を解放して欲しいとやって来た時、当然のようにアレクシスはその要求を突っぱねた。
偽装船に隠されるように乗せられていた奴隷など、身元も定かでなければ、どこと繋がりを持っていたのか知れない。
更には、あの奴隷は戦い方を知っていた。
船内で暴れられでもしたら、それなりに手を焼くことになるだろう。
そうすれば、リオが危険な目に合う可能性だってあるのだ。
「どうしてさ! アレクシスの分らず屋!」
「何と言おうと、駄目なものは駄目だ。いくらリオの頼みでも、こればかりは許可できない」
きっぱりと言い切り、アレクシスは話は終わりだとリオの背を押して退室を促す。
しかし、リオの方も頑として譲らず、決して動くまいと両足に力を入れて踏ん張る。
その頑固さに呆れたような息を吐き、アレクシスはガシガシと己の頭を掻いた。
「あのなぁ、リオ。これは……」
「……じゃないか」
小さく呟かれた声に、アレクシスは続けようとしていた言葉を止める。
俯いたままの頭を黙って見下ろしていると、リオはパッと顔を上げて口を開いた。
「だって、友達にこの船を、皆を……、俺の大好きな宝物を見せたいって、そう思ったって良いじゃないか!」
涙ぐみながら自分を見上げるリオの視線に、アレクシスは思わず黙りこむ。
非難を込めて此方をい抜く眼差しが、不意にあの黒い瞳に重なったのだ。
夜の色を溶かし込んだあの望洋とした瞳に、この船が、世界が、一体どの様に映っているのか。
それを知りたいという思いが、何故か唐突に胸の底で湧き上がった。
ぼんやりと物思いに耽っていたアレクシスは、リオが言った言葉につい上の空で返答を返す。
その直後、リオは歓声を上げて飛び上がった。
「本当! じゃあ、葵と一緒に船を見て回って良いんだね?」
「はっ……? ちょっと待て、お前何言って……」
「何だよ、今、自分で返事したじゃないか! 海賊船キラーホエールのキャプテン・アレクシスともあろう者が、一度した約束を無しにするわけ?」
何処と無く勝ち誇った顔で見上げてくるリオに、アレクシスは片手で目元を覆う。
船の名を出されると弱いことを知っていて、こうして引き合いに出してくるのだからたちが悪い。
最近は、そういうところばかりメリッサに似てきたような気がする。
深々と溜め息を吐いてから、アレクシスは机に歩みより一段目の引き出しを開けた。
そうして小さな鍵を取り出すと、リオの方へと放り投げた。
「足枷の鍵だ、持って行け」
「やったー! ありがとう、アレクシス」
「ただし、あいつを自由にするのは一日に一度、二時間が限度だ。それから、連れ歩く場所は、クルーの目の届くところにしろ」
アレクシスの言葉に、リオは不満げな声を漏らす。
「えー、条件付きなんて聞いてないよ」
「これでも随分譲歩してんだ。守れないなら、解放は無しだぞ」
「ちぇ、分かったよ」
リオとしても、それが破格の対応であることは理解しているらしい。
それ以上の文句は言わず、鍵を大事そうに握り締めながら、顔を綻ばせて部屋を出ていった。
パタリとドアが閉まるのと同時に、アレクシスは机の脇に置かれたベッドへと仰向けに倒れこんだ。
明日からはクルー達の役割分担を組み換え、何人かは彼らの監視にまわす必要がある。
頭を悩ませる事柄が増えるばかりで、アレクシスは疲れたように眉間を揉むと、一時的に全てを放置して目を閉じた。