その人物はまだ薄暗い早朝の王都を、足早に歩いていく。
道端に立ち止まり、眠気眼で話し込んでいた男性が、その人を認め驚愕に目を丸くする。
慌ててそちらから目を離し、話し相手に小さな声で何事かを囁いた。
その先でも同じような光景が繰り返され、その人物の前には自然と道が開けた。

 何年も着古したようなローブをまとった姿は、華やかな王都で様々な意味で目立っていた。
そして、それ以上に人々の目を引いたのは、その人物が着けている仮面のせいだった。
深く被ったローブから時折覗く顔の、鼻から上は銀色のマスクで覆われている。
その異様な雰囲気に、普段の通りの喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 周りの様子には構いもせず、その人は一本の路地へと迷いなく足を踏み入れる。
そして、ある店の前で足を止め、確認するように看板を見上げた。

 薬屋を示す絵が描かれている看板に、準備中の札が下げられている。
それにも拘らず、その人物は戸を叩くことすらせずに扉を押し開いた。

 ドアベルが揺れ、カラコロと不規則な音を立てる。
光りが一筋の線を描き、人気のない店内を照らす。
その隙間から、仮面の人物が身を滑り込ませた。
通りの喧騒が一際大きくなり、戸が閉まると同時に再び静寂が戻った。

 暫らくすると、カウンターの置くの扉から物音が聞こえ、徐々に近づいてくる。
やや乱雑に開かれた扉からのそりと出てきたのは、無精ひげを生やした中年の男だった。
彼はガリガリと頭を掻きながらカウンターまでやってくると、大きくあくびをした。


「おいおい、一体何処のどいつだ。準備中って札が見えねぇのかよ」


 この薬屋の店主である彼は、扉の前に立ち尽くす小柄な影に向かって、不機嫌そうに口を開いた。


「そう、なら別の所に売りに行ってもいいんだけど」


 店主の態度を気にもせず、その人は彼の言葉に肩を竦める。
女にしては低めの、男にしては高めの中性的な声色が、ますますその正体を曖昧にさせていた。
店主は仮面の人物の声に頭を掻いていた手を止める。
まじまじとその人物を見つめた後、熊のような体格に似合わず人懐こい笑みを浮かべた。


「って、ルースじゃねぇか! お前なら大歓迎さ。元気だったか? 今までも手紙で取引はしてたが、顔を見せにくるのは20年ぶりか」


 カウンターを回って歩いてくると、名を呼びながらその人物の肩を叩いた。
思い切り肩を叩かれた仮面の人物、ルースは肩を擦りながら店主を睨んだ。
文句を言おうと口を開くが、店主の心底喜んでいるような笑顔に口を噤む。
諦めたように息を吐いた後、肩に回された店主の腕を叩き落とす。
彼は叩かれた手の甲を擦りながらも、知己の久しぶりの訪問に懐かしそうに目を細めた。


「しっかし、お前も魔女の末裔だかなんだかしらねぇが、さすが魔力持ちだけあるな。前に来た時とちっとも変わんねぇじゃねぇか」
「そう言う君は、随分老けたんじゃない」
「おいおい、渋くて格好良くなったって言ってくれ」
「それ、鏡見てもう一回言ってみなよ」


 誇らしげに胸を張る店主に、ルースは呆れたような視線を向ける。
ルースは堪えない彼に軽く首を振り、無視することに決めたらしい。
さっさとカウンターに近づくと、懐から次々に小袋を取り出して並べだす。
店主は後ろからそれを覗き込み、感心したように頷いた。


「おう、痛み止めに、腹下しの薬、疲労回復の薬か。相変わらず何でも調合してくるな。で、こいつはなんだ?」


 他の袋とは一風異なった可愛らしい袋をつまみ上げ、店主は矯めつ眇めつ眺める。
それを横目で確認し、ルースは小袋を並べる作業に戻った。


「森で採れたハーブを練りこんだ焼き菓子」
「こいつはありがてぇ、ルースの作る菓子は美味いからな」


 顔に似合わず甘いものが好きな店主は、顔を綻ばせて小袋の中身を確認する。
袋を開けると同時に、甘い砂糖とバターの匂いが、次いでナンセの爽やかな香りが広がった。
店主は中に入っていたクッキーを一つつまみ、口の中に放り込む。
サクサクとして香ばしく、それでいて甘さ控えめで優しい味だ。


「うん、やっぱ美味い」
「ちょっと、それは奥さんへのお土産であって、君にあげるなんて一言も言ってないけど」
「固てぇこと言うなって。まぁ、そこに座っててくれ。今買値を出すからよ」


 眉を顰めるルースに、店主はカラカラと笑い声を上げた。
一応の客として席を進め、彼は真剣な顔つきになるとカウンターに並べられた薬の検分を始める。
ルースは窓辺の椅子に座りそれを眺めていたが、ふいと視線を逸らし窓の外を眺めた。
仮面の奥に潜む黒曜の瞳が、つまらなそうに外を行く人の流れを追っている。

 店主の妻が起き、朝餉を作り始めたのか、時折店の奥から物音が聞こえてきた。
静まり返った店内には、店主が袋の紐を解く音や、何かを書き留める音だけが小さく響く。
暫らく通りを眺めていたルースだったが、顔だけを店主へ向けて問いかけた。


「人が多いけど、何かあるわけ?」
「もうすく今世陛下の、ご即位10周年でよ。お貴族様達が王都に来るってんで、流れの商人が集まってきてるんだろ」
「ふーん」


 心底どうでもよさそうなルースの返答に、店主は薬を扱っていた手を止め顔を上げる。
ルースはすでに通りの方を向いており、今はローブを纏った後姿だけが見えた。


「お前、相変わらず貴族とかそう言うのに興味ねぇんだな」
「僕、貴族とか権力とか嫌い」


 苦味を混ぜた声色から、盛大に顔を顰めている様子が思い浮かべられて店主は苦笑した。
ルースは一度も仮面を外したことがなく、その正体はそれなりに交友関係のある店主すら知らない。
だが、気を許した人間に対しては、その声が案外感情豊かなことを知っている。


「薬っつたら、そう言うところに売り込みゃあ金になんだろうに。こんな質の良い薬なのに、本当に勿体ねぇな」
「興味ない」
「だろーな」


 ルースの作る薬は、副作用もなく飲みやすいと評判が良い。
入荷すると、どこから聞いてきたのか、馴染みが次々と来店して購入していくため、すぐに完売してしまうのが常だった。
それほどに人気なルースの薬だが、本人はあまり商売をする気がないらしい。
冒頭で他所に売りに行くという話はしていたが、この王都でルースが薬を卸しているのは今のところ自分の店のみだ。


「はいよ、今回のやつなら、こんなもんだな」


 最後の薬を見終え、店主は買値を書き付けた紙をルースに渡す。
それをざっと眺めて、ルースは意外そうな声を出した。


「君にしちゃあ、良い値をつけてくれたじゃない」
「久しぶりにお前の顔見れたからな、特別価格だ」


 穏やかに笑う店主に、ルースは一瞬目を見開くと、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
店主は、それがルースなりの照れ隠しであると知っているため苦笑をもらす。
ルースはそんな彼を睨みつけていたが、薬の買値を書いた紙を店主につき返した。
どうやら商談は成立したらしい。

 店主は代金を支払い、受け取った薬を棚へ並べる。
ルースも荷物や硬貨を魔法袋に詰め、帰り支度を始めた。


「そう言やあ、お前まだ森に一人で住んでんのか?」


 棚に薬を陳列する手は止めず、店主は唐突にルースに話しかける。
ルースは荷物を纏め終え、袋の紐を腰に結びながら店主を振り返った。
何となく嫌な予感がするため、警戒したような視線で彼を見やる。


「そうだけど、問題でもあるわけ」
「いや、俺とお前が出会ってからの年月を考えりゃあ、お前もそれなりの年だろ。そろそろ良い相手みつけて結婚でもしろよ」
「またその話? いい加減聞き飽きたんだけど」


 ルースはやはりこの手の話が始まったかと、うんざりとした声を上げ顔を顰める。
店主は自分が妻を娶って以来、何かと結婚について進めてくるようになった。
悪い人間ではないが、薬の取引の手紙でも毎回のように書いてくるため正直うざったい。


「所帯を持つのは良いぞ、人生に張り合いが出る」
「はいはい、そのうち考えるよ」
「その言い方、全然考える気ねーだろ」


 興味を失ったルースは、ぞんざいな返答を返し、椅子から立ち上がる。
通りにはずいぶんと人が増えていたが、もう暫らくするとさらに王都の通りは賑わいを増すはずだ。
人ごみの煩わしさに辟易するまえに、さっさと街を出た方が良いだろう。

 店の出入り口を押し開くと、朝日が薄暗い店内を照らす。
光りの眩しさに目を細め、ルースは一瞬足を止めた。
額に手を翳し空を見上げると、太陽が顔を出している。


「今度はカミさんが暇な時に顔を見せに来いよ!」


 通りに向かって歩き出したルースの背に、叫ぶような店主の声がかかった。
それに、ルースは振り返らず片手を挙げて答える。
扉が閉まる頃には、その小さな影は雑踏に紛れて見えなくなった。




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