微睡みの中で、微かに響くカツカツという音に、青年は眉間に皺を寄せた。
何とか意識をはっきりさせようと、彼は小さくうなり声を上げながら上体を起こす。
元々柔らかい質なのか、寝癖の付いた髪の毛は鳥の巣のように絡まり合い、青年のこげ茶色の髪色がさらにらしさを引き立たせていた。

そんな乱れた頭を軽く掻いて、彼は窓の方を振り返る。
視線の先では、色とりどりの羽を広げた鳥が、黄色い嘴でガラスを叩いていた。

青年は眉を下げ、苦笑を漏らしてからベッドの中へと目を向ける。
シーツに散らばる長い銀糸が、朝日を浴びてキラキラと輝いていた。
その美しい髪の持ち主は、こちらに背を向けたまま未だに起きる気配がない。
彼の鳥の真の尋ね人であろう女性を、一瞬眩しそうに目を細めて見下ろした青年は、表情を緩めるとそっと手を伸ばした。


「トーリ? トルディアナ、起きて。可愛らしい使いが来ているみたいなんだけど」


毛布からはみ出ている肩に手を添え、軽く揺するが、彼女はピクリとも動かない。
起きる気がないのか、狸寝入りをしているのか、判別がつかないが、どちらにせよ彼女は小さな使者を無視するつもりのようだ。
しかし、青年の記憶に間違いがないのなら、あれは女性の上司が所有している伝達用の鳥であったはずだ。
ならば、十中八九大事な用件を預かってきているに違いない。

青年は困ったような笑みを浮かべてから、するりとベッドを抜け出す。
近くの椅子にかけてあったズボンに足を通すと、ゆっくりと窓に近づき、鍵を外して窓を開け放った。
次の瞬間、鳥は待っていましたとばかりに室内に飛び込んできた。
そして、ベッドの上を旋回しながら、声高らかに鳴き出したのだ。


「仕事だぞ、さっさと来い! 仕事だぞ、さっさと来い!」


彼の飼い主であるところの人物を良く真似ながら、鳥はバサバサと室内を飛び回る。
最後に、小さなサイドテーブル上の卓上ライトを止まり木代わりにすると、再び嘴を開いた。


「仕事だぞ、さっさと……クェッ!」


しかし、その直後に毛布の中から素早く伸びた白い腕に喉元を掴まれ、悲鳴のような鳴き声を上げた。
バサバサと羽ばたいて逃げようとするが、機嫌が斜め向きである腕の主は放すつもりがないらしい。
切れ長で冷ややかなアイスブルーの瞳を更に細め、憎々しげに鳥を見下ろしている。


「うるさいわよ、ガスト。捌かれて、焼き鳥にされたいの」
「ギャッ……、グェェ!」


鳥としても、身の危険を感じているのか、必死に身体をよじり、翼を動かす。
そんな一人と一羽のやり取りを見かね、青年は苦笑を浮かべつつ鳥を睨みつけている女性に声をかけた。


「トーリ、そろそろ許してあげても良いんじゃないかな? なにも、ガストが悪い訳じゃないんだし」
「そんなことは分かってるわ。でも、こうでもしないと、私の気が治まらないの」


青年の言葉に溜め息を吐いてから、女性は鳥の足に結わえられていたメモを外し、彼を解放した。
ようやく魔の手から逃れた鳥は、一目散に窓から外へと飛び立っていく。
あっという間に遠ざかっていく影を見送ってから、青年は窓を閉め、キッチンへと歩み寄った。

恐らく、彼女はすぐに家を出ることになるだろうから、ゆっくり朝食をとる時間はないだろう。
彼女の上司は『早く』と言うからには、迅速に行動しないと気がすまない質なのだ。
乗り合い馬車の中で手早く食べられるようにと、青年はサンドイッチを作ることにした。

木箱に積み上がった野菜から、レタスとトマトを手にとり、軽く洗い流す。
瑞々しいレタスはざっくりと千切ってから、トマトを薄くスライスする。
これから目一杯働かされるであろう彼女を思い、ハムは少し厚めにカッティングした。
バゲットに切れ目を入れ、たっぷりとバターをぬって、野菜とハムを挟めば完成である。

スープを飲む時間くらいはあるだろうからと、青年は昨日の晩の残りに火を入れて暖めた。
二つ分のカップに湯気のたつスープを注ぎ、一通り朝食の準備を終える。

満足げに息を吐いてから、青年は顔を上げて女性の様子を伺った。
ベッドから身を起こし、紙切れを見下ろす彼女の眉間には、深い皺が刻まれていた。
なまじ整った顔であるため、あの表情で真正面から睨み付けられると、何とも居心地の悪い思いをするのである。


「卿は何だって?」


彼女の体にシャツを羽織らせてから、青年は持っていたカップを手渡す。
そして、自分はベッドサイドに置いてあったテーブルに腰掛け、カップを傾けた。
彼女の仕事が、些か特殊な部類に入ることは知っている。
そのため、いくら親しい仲になったとしても、彼は彼女の許可なく詮索しないことにしていた。
だから、ここで話を切られれば、それ以上食い下がるつもりはない。
だが、今回の連絡はそれ程重要な事ではなかったらしく、彼女はカップに口をつけながら彼にメモを差し出した。


「読んで良いの?」
「これと言って特別な事は書いてないわ。急ぎの用だから、早く来いですって」


受け取ったメモには、彼女の上司らしい達筆な文字が連なっている。
よくもまあこれだけの小さな紙に、びっしりと文字を書き込めるものだと感心すらしてしまいそうだ。
仰々しく長々と書き連ねられているが、要約すれば確かに彼女が言う通り『早く来い』である。
最後に自身と己の妻との、のろけ話が入り、その手紙は終わっていた。

苦笑しながら青年が顔を上げると、彼女は殆ど支度をすませ、流れるような銀の髪にくしを入れているところだった。
彼は立ち上がって、予め用意してあった籠にサンドイッチを詰め込む。
そうして、片手にそれを下げると、ちょうど準備を終えた彼女に歩み寄った。


「はい、朝ご飯。卿の屋敷につくまでに、時間があれば食べてよ」


そう言って、青年は籠を差し出したが、目の前の彼女はなかなか受け取ろうとはしない。
そればかりか、こちらに背を向けたまま、振り返る様子すらなかった。


「トーリ?」


彼女の様子に、彼は訝しげに首を傾げると、持っていた籠を傍らの椅子に置く。
そして、再度彼女の元へ近付き、顔を覗き込む。
彼女はその視線から逃れるようにそっぽを向いた後、小さく呟いた。


「せっかく……」
「え?」
「久しぶりに、二人でゆっくりできると思ったのに」


少し拗ねたような彼女の声色に、思わず身を起こした青年は、緩んだ口元を片手で隠す。
普段、あまり表情を変えない彼女は、身に纏う色もあって氷に例えられる事が多い。
だが、青年はそんな彼女が、意外と感情豊かな事を知っている。
そして、本当は可愛らしい部分があることもしかりだ。
今も、銀の髪から僅かに覗く耳と項がほんのりと染まっている。
恐らく、自分でも似合わないことを言ったとでも思っているのだろう。


(あー、もう)


青年は内心で、降参するように両手を上げてから、そっと彼女を腕の中に抱き込んだ。


「ねぇ、トルディアナ。この仕事が終わったら、休暇を取り直そう」


幸い、自分の仕事場は、彼女よりも融通がきく。
若干嫌な顔をされるかもしれないが、彼女と過ごすためなら甘んじて受け入れる。


「だから、絶対に無茶はしないで。怪我なんてしないで、ちゃんと僕の所へ戻って来て」


そう言って、祈るような気持ちで彼女の頭に口付ける。
彼女の仕事が何であるか、詳しいことは分からない。
ただ、危険を伴う事も多々あることは知っていた。
実際、その白く華奢な身体に、数多ある傷跡も目にしている。
だから、彼は彼女を送り出す度に、祈るような思いで口付けるのだ。
そんな彼の思いに応えるように、彼女は自分を抱き込む青年の腕に手を重ねる。


「あら、随分な言い草ね。誰に向かって言っているのかしら?」
「もちろん、『イグナート卿の氷剣』である、僕の大切な女性ひとにだよ」


彼女は振り返って青年を見上げると、その美しい顔ににやりと笑みを浮かべた。




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乗り合い馬車に乗り込む彼女を窓枠に寄りかかりながら見送っていた青年は、馬車が走り去ると深々と溜め息をついた。
彼は室内に視線を戻し、クローゼットに目を向ける。
あの奥深くには、綺麗な包装を施された小さな箱が隠されている。
感の良い彼女に見つからないように、何重にも服やタオルを被せられたそれは、彼女へ贈る誕生日プレゼントだった。


「早く彼女を帰して下さいね、卿。これが無駄になったら、さすがに恨みますよ」


小さく呟きながら、彼は溜め息と共に苦笑を浮かべたのだった。